| 2021年09月22日(水) |
家の中、自分の他に誰もいなくなったのに、じっと本を読むことができない。心がざわざわする。思い切って外に出てみた。本屋の近くの珈琲屋に陣取り、本を開く。そうして薬丸岳著「誓約」を読み終える午後。 確かに、薬丸岳氏の作品は犯罪被害/犯罪加害の問題が色濃く取り扱われているのだけれど。それだけじゃないところが救いなのだな、と感じた。それは、ひととしてこれだけは、という部分が必ず、少なくとも私が読んできた何冊かの本には、描かれていた。私が薬丸岳氏の作品を読み終えた後いつも感じる切なさや安堵は、そこから来るのだろう。 現実はどうだろうか。 認知の歪みにずっぽりと染まった加害者の、その認知の歪みを歪みなのだよと伝えるだけでも難しい。伝え続けたとしても、その加害者は生涯、それを受け容れることができないまま死ぬことだって、ある。そこに救いはない。 それでも。 伝え続けることをやめてはいけないのだな、と。そんなことを思うのだ。ひととしてどうあるべきか、ありたいのか、そのことを自分自身常に自問しながら、必死に生きていかねばならぬのだな、と。 薬丸岳氏の著書からは、ひとがひととして生きることの大切さがこれでもかというほど匂い立つ。ひとがひととして守るべきものは何か、譲れないものとは何か。 何となしに「薬丸岳」と検索したらWikipediaがトップに出てきて、薬丸氏が1969年生まれであることを知る。ああ、同世代の作家だったのか、と。どおりで薬丸氏が描く悲惨な事件に私自身覚えがあるわけだ、と納得する。実際に起きた、あってしまった事件の幾つかが、薬丸氏の中に色濃く刻まれていて、それが彼のベースを作っているのだなと勝手に解釈する。こういう昇華の仕方もあるのだな、と。
帰り道、自転車でゆっくりと走る。走りながら、すれ違うひとたちの横顔をちらり、またちらりと見やる。このひとたちにも当たり前だけれどもこれまでの人生というものがあって、もしかしたらとてつもない過去を背負っているひともいて。いや、みな、それぞれがそれぞれの人生を、これでもかというほど背負っていて。 もしかしたら今日この直後、死んでしまうひともこの中にいるかもしれなくて。同時に、これまで生きていていっとう幸せだという瞬間を味わっているひともいるかもしれなくて。世界はなんて混沌に満ちているのだろう、と、呆然とした。 もし自転車で走っていなかったら、私はその場に蹲ってしまったかもしれない。 横断歩道を横切る誰かの横顔を、子どもの手を引いて足早に歩く誰かの横顔を、波止場で煙草をくゆらす誰かの横顔を、すれ違いながらちらり、またちらり見やる。そうしながら私は、胸がいっぱいになってくるのを感じる。 この中には、私のように、かつて犯罪被害に巻き込まれた誰かもいるかもしれなくて。その誰かは明日こそ死のうと思っているかもしれなくて。同時に本当は死にたくなんてないのにと思っているかもしれなくて。でもそんなこと誰にも分からなくて。誰もどうにもしてあげられなくて。 坂道を昇りながら、眩い午後の陽光を浴びる自分の腕が目に入る。あの時私が死んでいたら、死ぬことが叶っていたら、今こんな光は当たり前だけれども浴びることはなくて。 何だか走りながら、ぶわあっと感情が込み上げてきた。ああもうみんながみんな、どんな形でもいいから、今幸せであれ、と、祈るような思いが。理屈も何もどうでもいいから、そんなもんとりあえずどうでもいいから。 ただもう、幸せであれ、と。 |
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