ささやかな日々

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2021年10月02日(土) 
台風が去った後。美しい夜明けに出会う。久しぶりだ、こんなしんと張り詰めた朝は。シャッターを切りながら心の中きゅっと引き締まる思いを感じる。そうだ、私は朝の、こんなひとときが好きなのだ、たまらなく好きなのだ。冬が近づけば近づくほど、冬が深まれば深まる程、この、きゅっと引き締まる感じは強まる。まだ秋が始まったばかりなのに冬、冬と呟くのはどうかと自分でも思うけれども、私はすでに冬が恋しい。早く来てくれることをただ祈るばかり。

場面緘黙症だった娘が、いつの間にかそれを乗り越え、自ら自分を語るようになっている姿を見ることができることほど、嬉しいことはない。今日もそんな場面に出会う。まるであの頃のことが嘘のようだな、と思ってすぐ、いやいや嘘でも何でもない、あの頃彼女は本当にしんどかった、と強く思う。あの時があったからこその今なのだ、と。
それは誰にでも言えることなんだろう。あの頃があったからこそ、それを礎に今があるのだ、と。私自身にも言えることのはず。
なのに、過去にしきれない過去をいまだ引きずっている。もういい加減そこから解放されてもいいと自分でも思うのに、まさにその言葉通り、過去の亡霊にとって喰われてる。だめだ、こんなんじゃ。つくづく思う。
カウンセラーと話をしていて、これまでのことはいい、でもここから先まだ十年二十年残っている人生ずっと、そうやって生きるのはしんどいよね、といつもその話になる。過去の亡霊をもういい加減過去に葬ってあげていいんじゃない?と。私もそう思うのに、刻まれた記憶によって反射的に反応するこの躰と脳味噌。どうやったら解放してあげられるんだろう。
身体はトラウマを刻み込む、とそれは本も読んで知っている。私自身痛感している。が、じゃあどうやったら解放できるのか。頭ではすでにそれが過去の亡霊と分かっている、承知している。なのに身体が勝手に反応するのだ、瞬時に反応してしまうのだ。
正直、もう、そういう自分自身の反応に、私が疲れている。

田口ランディさんの新刊「水俣 天地への祈り」は、作者がどんな役目を担っていまここにいるのかが明確に伝わって来る。橋渡しの人、あるいは蝶番の人。
ひととひととを繋げるためにこの本がある。ひとがひとであることを思い出させるためにこの本がある。ひとがひととして生まれたことの意味、ひとがひととして生きることの意味、ひととして何ができるのか、何ができないのか、何を重ねていったらいいのか、そういったことがぎゅっと詰まっている。読むほどに、しんと心が鎮まって来る。
私はここに登場するひとたちのことを誰一人実際には知らない。知る訳がない。なのに、何故だろう、とても近しく、すぐ隣にいるかのように立ち現われて来るのだ。それが作者の力なのだろう。感服する。肌で感じるのだ、そのひとたち、を。だからこそ、彼らの言葉、想い、が、胸がいっぱいになってしまうほどにじんじんと伝わって来る。そして、自分に問いたくなる。私はどうありたいのか。どう生きて死にたいのか。私の役目は、と。
タイトルに水俣と付してある。が、水俣だけに留まらない、いや、水俣から確かに始まっているのだけれども、でも違う、もっとこう、「ひととして」を問うてくる。そんな一冊。

ついさっきまで夕焼けが美しく空を彩っていたのに。夜も更けてきたら突如、雨が強く降り出した。一時的なもののようだが、その雨の中家人が帰ってきた。今日一日きれいに晴れていたから傘を持っていなかったのだろう、ぐしょ濡れになって。サスケを脇に座らせ缶ビールを開ける家人。少し話をする。淡々と流れる、雨の夜。
そうだこれも、じきに終わる。じきにまた晴れる。


浅岡忍 HOMEMAIL

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