| 2021年11月01日(月) |
時々、被害者に許してもらうにはどうしたらいいか、というようなことを訊いてくる加害者がいる。 申し訳ないが、はっきり言う。勘違いも甚だしいと思う。 被害者に許されればそれで済むのか? 否。
加害者の多くは、自分が犯した問題行動その瞬間のみを想定して、そこに向かって謝罪しようとする。そして許されたがる。 しかし、被害者にとってその、加害者が犯した加害行為だけが問題なのではないのだ。その後生き続けることにおいて、生きづらいことこの上なくなってしまった、そのことが大変なのだ。 この差異。 ちゃんと考えていない加害者が多すぎる。
そもそも、被害者に許されれば自分の罪が消えてなくなると思っていること自体間違いだ。生涯背負っても足りないくらいのことを自分が犯した、それが罪であるという意識がなさすぎる。 被害者が許すか許さないか、そんなことは脇に置いて、自分がどう生きるべきなのか、そこを自身に問い質さずして、何も始まらない。そのことに至っていない加害者の何と多いことか。 自身が何故こんな罪を犯したのか、罪を犯さずにはいられなかったのか、そういったことから始まって、ここからいかに生き直すか、生きてゆくのか、そういったところまで、自身に常に自問自答していかなければならない。それが、罪と向き合うことなのではないのか? 誰かに許されれば罪から解放されると思っている時点で、間違っていると私は思う。
そもそも許すという字が違うと思う。 赦すか赦さないか。だ。 そしてそれは、他の誰も侵してはならない、被害当事者だけがその選択を決定できるのだ。 そして、被害者に赦されようと赦されまいと、加害者は己の罪と向き合いながら、生きてゆかねばならない。そういうものだと私は思っている。
性犯罪加害者になってしまった君よ、すぐに被害者に許されようとか思わないでくれ。そうではなく、ここからどう生き直すのか、そもそも自分が何故こんな罪を犯したのか、それはどれほどのひとや時間を巻き込み、誰かの人生を薙ぎ倒したのか、等々、他人に問うのではなく自分で考えていってほしい。問うて誰かが応えてくれる、それで安心してしまってはならないんだ。常に自問自答を続けること、それが、いかに生きるかに繋がるのだから。その姿を、生き様を、被害者はじっと、見つめている。
更正、じゃない。更生、なのだ。 罪を犯したその先にあるのは更正じゃない。更生、だ。私はいつもそう思っている。だからこそ、今ここから何ができるのか、どう生きるのか、実際どう生きているのか、が常に問われていると思う。生き様で示せよ、赦されたいと本気で思うのならば。 赦されようと赦されまいと、自分はこう生き直すのだ、こう生きるのだ、と。懸命になってくれよ。
そう言いたくなるくらい、被害者は日々、一瞬一瞬、綱渡りの生を生きてるんだ。 |
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