ささやかな日々

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2021年11月13日(土) 
やはりこの子は雑草でも何でもない、葡萄の芽だ。ほんの1センチほどの芽を凝視しながら私は思う。よくもまぁ出てきたものだ、すごいね君。そんなことを心の中呟く。まさか芽が出る子がいるとは思いもせず、何となく蒔いただけなのに。植物の命って、本当に強い。
数日前出した手紙たちがこぞって届いている頃、電話をくれるひともいれば、今手紙を書き始めたところですと声をかけてくるひともいたり。昔のようにたかだか電話一本でもその前に速達でやりとりしあうような、そんな状況とはまるっきり違う今、それがいいのか悪いのか私にはわからない。味わいがなくなった、と言えば簡単に済んでしまう。でも、それだけじゃない、待つ、という行為、それに費やされる時間、心の在処が、永遠に失われたのだな、と改めて思う。一度失われたものはよほどのことがないかぎり二度とは戻らない。

孫娘の誕生日が昨日だった。彼女が生まれてもう四年になるのかとしみじみ感じ入る。あっという間の四年間だった。娘たちにとってはもっとそうであるに違いない。結婚し、出産し、離婚し、そして今子育ての真っただ中。

Yさんから手紙が立て続けに届く。それと前後して、MMアーツのMMさんが今年春亡くなったことを知る。まだ若かったはず。TMちゃんの落胆はいかなるものだったろう。そんなことを考え、そいて足を止める。
そんなことも知らず今日までずっと生きていた私。ふと思う、私の直接の加害者ももしかしたらもういい年で、死んでいなくなっているかもしれない。そう考えたらちょっとぞっとした。私はそのことを知るすべもないから、どうしようもないのだが。

PTSDと性暴力という記事を読んだ。その中で、PTSDは確かに回復が見られることもあるけれどそれでも一度失ったものは戻らないし時間も巻き戻すことはできないということが書かれていて、本当にそうだと頷く。たとえPTSD自体は回復したとしても、それらは決して元に戻ることは、ない。
その残酷さ。

加害者は被害者に赦されたがるという話を以前書いた。それは違うと思うということについても。
その思いは決して変わることなく今日も私のうちに在る。
じゃあ加害者は一体誰に謝罪すればいいのか、誰に赦されればいいのか。という問いが残る。文通相手の受刑者Yさんにちょうどそう問われた。
加害者は加害者自身を受け容れ赦す必要があるんじゃないか、と。そう思うのだ、私は。自分自身の罪を罪として受け容れ、問題行動を問題行動として認識し受け容れ、そのうえで、自分に赦されなければ、きっと何も変わらない。何度でも繰り返すのではないか、と。
他者に委ねてはならない事柄なんだ、と、そう思うのだ。まだ言葉ではうまく言い尽くせないが。それでも私は、そう思う。


浅岡忍 HOMEMAIL

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