| 2022年03月09日(水) |
日の出前の一瞬、空が桃色に光り輝いた。あまりにその色合いが美しくて、しばらく窓際に立ち尽くしてしまった。なんて綺麗なんだろう。桃色から始まり、上にいくほど水色になる。そのグラデーションの美しさったら。微妙に空が霞んでいたのは花粉のせいだろうか。その霞がまた、桃色から水色へのグラデーションを飾っているかのようだ。写真を撮りながら、こういう何でもない日の空がたまらなく好きだなぁと改めて思ってみたり、する。
被害からまだ間もない友人が、何とか生活を立て直そうと就職活動を繰り返している。どう見てもまだ正社員で働ける状態じゃあないのに。周りが何を言っても彼女の耳には届かない。就職活動をして何とか就職できても、また一か月足らずで自ら職場を去ることになるのでは、いい加減気力が持たなくなるに違いないのに。 と書きながら、そうなんだよなぁと思う。周りに何を言われようと、元に戻りたいという気持ちが強烈にあった頃私だってそうやって何度も就職退職を繰り返して、顰蹙を買った。そうやってどんどん自分の世界を狭めてしまった。でも、生活だってしなければならない。だからある程度の収入は必要なわけで。まったく働かないという選択肢は選べないわけで。だからこそ、「元のように働きたい」と願ってしまうのだ。あの頃みたいに忙しく立ち働いて、輝きたい、と。 でも。元に戻ることはもう、できないんだ。被害をなかったことにはできない。
なぜその被害者を選んだのかという先日の加害者プログラムのテーマに対して、「何でもいいから認められたかった」と走り書きしていたひとがいた。そこだけ字が大きく、斜めになっていて、最後の最後に彼が走り書いたのだということがありありと伝わって来た。何でもいいから。彼にとってもきっとその思いは切実だったのだろう。でも。結果被害者を生んでしまった。その責任を、彼はどこまでも背負って果たしていかなければならない。 またあるひとは「誰かに「自分はここにいるよ」と気づいてほしかった」と書き残していた。憧れ、性的欲求、支配欲、居場所が欲しかった、等々、それらの言葉から矢印を伸ばしたその先に、そう記していた。自分はここにいるよ、というその言葉が、あまりにくっきり書かれていたのではっとしてしまった。字それ自体が「僕はここにいる」と言っているかのようで。どうしてそんな必死な思いを、性暴力に転嫁してしまったのだろう。私にはとてもじゃないが分からない。分からないけれど、これをこのままにしておいていいとも思わない。
加害者との対話を続けるほどに思うのだ。この隔たりにどう橋を架けたらいいのだろう、と。そもそもそんな橋を架ける必要があるのか?と嘲るひともいるんだろうけれど、私はその橋は必要だと思うのだ、加害者を知らなければ永遠に「何故私が」という問に答えは見つからないままになる。そもそも何故彼らがこんなことを繰り返すのか、彼ら以外の誰が答えられようか。その疑問への答えがなければ、彼らの「繰り返し」を止める術は、ないと私は思う。 たった一度、じゃない。何度でも繰り返してしまう。性加害行動は何度でも繰り返されてしまう。 私の加害者も、私への加害行動が初めてではなかった。過去に何度も繰り返してのことだった。そのことを知らされた時愕然としたのだ、呆然としたのだ、何故こんなことを繰り返せるのか、と。でも、それが現実だった。 もっと遡れば、恋人からのDVも、延々と繰り返されるものだった。まるで蟻地獄のような、螺旋階段を転げ落ちるかのような、そんな永遠さがあった。どうして愛していると言いながらその同じ声音でもって私を罵倒し殴れるのだろう、と、心底不思議だった。でも、同時に恐怖で、とてつもない恐怖で、私はこれっぽっちも抗えなかった。 繰り返し繰り返し行われる性暴力。その繰り返しを止めるには。加害者自ら語ってもらうしか、ない。自らの言葉で自らの行為を思いを、語り尽くしてもらうほか、ない。
今日は自分を褒めることひとつ。かぼちゃの煮つけが上手にできたこと。息子も家人も、これまでで一番美味しいかも!と言ってくれた。ありがたいことだ。食べてもらえるだけでもありがたいのに、誉めてもらえるなんて、得した気分。作ってよかった。明日は家人用弁当を作る日。明日も頑張ろう。 |
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