ささやかな日々

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2022年03月16日(水) 
曇天の朝。所々ある雲の割れ目から降り注ぐ光は泡黄色で、静かに天使の階段を描いている。曇天の日の楽しみはこの、天使の階段にあると言っても過言ではないと私は思っていて、だから今朝のそれを見つめながら、先に逝ったひとたちのことを思い出していた。祖父母や大叔母といった身内のひとたち、同じ体験を経ながら先に逝った友たち。私の中で逝った時の年齢でぴたり時を止めた彼女らと生き続けている私との間には時の川が流れていて、その隔たりは日々大きくなる。いつのまにかほぼ全員の友の年齢を越えてしまった自分。それを思うと、何とも言えない苦みを覚える。生きていてくれさえしたら、今日、今、ここで、ぷっと笑い合うこともできていたかもしれないのに。ただ一秒共に笑うことさえ、もう二度とできないのか、そう思うと、歯軋りしてしまう。あまりに強く噛みしめ過ぎて、口の中微妙に血の味がする。

Kちゃんとほぼひと月ぶりに会う。そして、練馬区立美術館に「香月泰男(1911-74)」展を観に行ってきた。シベリア・シリーズはこれまでにも何度も見返した作品。「一生のど真ん中」に戦争があり、シベリア抑留があり、その体験を長い年月にわたって描き続けた香月のシベリアシリーズは、通常、応召から復員迄の「主題を時系列に」並べて紹介される。しかし今回の展示では、他の作品とあわせ、制作順に展示されていたのが印象的だった。
シベリア・シリーズ。色も最小限度に抑圧されたその画たち。そこに描かれる顔に固有名詞はないのかもしれないが、私には一個一個別個の顔、別個の眼差しをもった者にどうしても見えてしまう。だからこそ、少し画から距離を置いて見つめると、沈黙であるはずの画から蠢くような声がざわざわわと聴こえてきてしまう。それは重苦しい楔を穿たれた声。耳を覆おうと、目を閉じようと、一度画の前に立ってしまったら、否応なくその声も目もこちらを射るのだ。
全容をたどる回顧展というだけあってボリュームもたっぷりで、観終えた頃にはずんっと全身が重さを増したかのような錯覚を覚えるほどだった。
全てを観終えた時、ぺたん、と出口のソファに座り込み、呟いてしまった言葉がある。石原吉郎(1915-77)によって記された言葉、「人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ」だ。これを思い出さずにはいられなかった。
香月と石原。同時代を生き、シベリア抑留の経験を持つ者たち。その者らから生み出される作品の重さを、今一度、私たちは噛み締めなければならないんじゃないのか。そんなことを、ぼんやり思いながら眺める人波は、戦争も何も他人事かのように賑やかに色づいて、何処かへと流れ続けてゆくのだった。

気づけばすっかり空は晴れ渡っており。燦々と陽光降り注ぐ午後、私はすでに汗ばんでいた。なんて陽気だろう。これから春に向かって世界は騒めく。命がこれでもかというほど蠢き始める季節。
でも。私はそういう季節が正直苦手だ。嫌い、というわけじゃない。ただ、苦手だ。世界が騒めくと、その波動が圧のように私に伝わって来る、覆い被さってくる。息苦しくて息苦しくてたまらない。
Kちゃんとも話したが、「もうすでに私は冬が恋しい」。冬のあの、凛と張り詰めた早朝の空と大気。寒さは、ほんの微かな世界の動きにも敏感に反応する。そういうところを私はつい愛してしまう。

O川の橋のたもと、鴎たちがぎゃぁぎゃぁ言いながら大勢集まっていた。何事かと思って見やれば、久しぶりに餌やりおじさんを見つける。ああまだ元気にしてくれているのだな、と思ったら、ちょっと嬉しくなる。鴎ももう、来週にはここからいなくなるんだろう。そして海に還る。

私も、還れる場所が、欲しい。


浅岡忍 HOMEMAIL

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