ささやかな日々

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2022年03月15日(火) 
誰だかいまだ名前が分からない名無しの権兵衛は順調に育っており、もう5枚目の葉を拡げ始めている。あまりにすくすく育って、ついでにひとつではなく同じ種族なんだろう子が他に四本も芽を出して来ており。これは間違いなく私が何かを食べて、そうして蒔いた種だ、と確信するも、やっぱり思い出せない。私の記憶力のなさ、ほとほと呆れる。
宿根菫は今が盛りなのかもしれない。びっしり紫色の小さな花が咲いている。こんなにいっぱい花が咲く子だったっけ、とちょっと驚いている。クリサンセマムは一番最初に咲いてくれた子が一番大きくて、次からの子はひとまわり小さめ。でも次から次に蕾が開いてゆく。この数日、暖かい日が続いているからなおさら。薔薇たちはここぞとばかりに新芽を吹き出させる。一方、アメリカンブルーはちょっとお疲れ気味かもしれない。葉の色が冴えない。気になる。

二週間前から約束していたLさんと会う。Jさんの紹介だ。はじめましてなので「三つ編み一本横に垂らしてます」と知らせると、「私は茶色のジャケット羽織ってます」と返事が来た。おかげですぐお互いの存在に気づくことができた。
まだ二年前の出来事らしい。裁判も終わったが、もやもやとした何かが胸に充満したままだ、と。これをなくすには、加害者との対話しかないんじゃないかと考えた、と。そう話してくれた。ここでも「何故私が?」という言葉に出会う。

認知の歪み、と、よくその言葉が性依存症のひとに使われる。いや、認知の歪みなのだ、本当に。歪んでいる。それは私もそう思う。
でも同時に、その言葉に逃げ込んでいないか?とも思ってしまう。そう言えば、すべて済まされる、みたいな。十把一絡げじゃないけれども、認知の歪みと言ってしまえばすべて解決みたいな。そんな空気。
冗談じゃない。認知が歪んでいようと何だろうと、為した罪は罪であり、犯罪であり、君が背負わねばならぬ責任がそこにはあるのだよ。
たとえば説明責任もそのひとつ、だ。
被害者の「何故私が?」という問に応える。その責任が、加害者には、ある。それがたとえ、結論として「モノとしてしか見ていなかった」というものであっても、そこに至るまでの過程を被害者に自分の言葉で説明する、その責任が、あると私は思う。

Lさんが、どうして被害者同士で足の引っ張り合いするんでしょう?と突然言うのでびっくりしてしまう。同時に、そうなんだよ、とも思う。「ネガティブな方向にみんなしてひっぱりあって落ちてってる気がするんです」とも。「互いの傷を比べ合っても何にもならないのに、被害者が集まるとどうしてか比べ合いが始まってたりする、あれって何なんですかね」。Lさんの問いに私は言葉を詰まらせる。うまく応えられない。いや、それに答えがほしいのは私も同じなのだ、と、そう思って、戸惑う。
そうか、こんなところに、似通ったことを考えているひとがいたんだ、とも。他にもあれやこれやおしゃべりし、再会を約束して別れる。

先日思い出してしまった父の言葉の棘は、まだじくじく痛むけれど、我慢できないほどじゃあない。たぶん、大丈夫。
でも、連鎖的に思い出してしまった。婚約までした男からの言葉を。これ以上精神病者の相手はできない、と。また、レイプにまつわる言葉も。まるで数珠つなぎのように思い出してしまった。
きっと、その言葉に噓はなく、みんなそれぞれに、思ったことを思ったまま言葉にしたんだと思う。だからこそ、受け取る私には痛かったという、それだけだ。父も、その男性も。噓なくそう思っているからこその言葉だった、だから私には痛かった。それだけ、だ。
とりあえず。鬱々としてしまう前に、煙草を一本、吸おう。


浅岡忍 HOMEMAIL

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