| 2022年03月13日(日) |
Yちゃんが遊びにやって来た昨日。遊びに、というか、ひたすらおしゃべりをしにやってきた、というのが正解。彼女の抱えるあれこれを、ただひたすら彼女が語る。私はふんふんと聴きながら時々思うところを返す。途中ワンコの散歩につきあってもらったら、ここで土筆に出会った。あれ、土筆!と、ひとつやふたつかと思ったら、その背後に土筆が群生しており。空地の半分が土筆で埋まっているという具合で。これにはびっくりした。すごいね、と言い合いながら空地を散策。ワンコは早速土筆を喰らう。「え、苦くないの?」と彼女が言うのだが、ワンコはまったく問題なしという顔をしてがしがし喰らう。よほど気に入ったらしい。 Yちゃんが抱えている問題に、私が応えられることは多分、何一つない、と思う。相槌をうつことはできるけれど、似たような体験を経た私がその時どうしたかを語ることはできるけれど、それだけ、だ。いやそもそも、何も応えなくていいと思っている。今の彼女には、語ることが何より大事なのだ、と。そう思うのだ。誰かに語る、思っていることを外に出す、という作業。それが今の彼女には大事なんだ、と。それを何度も何度も為して、ああ、語っても大丈夫なのだという実感を得ること。また、自分の人生は自分で選択してよいのだ、という実感を得ること。これらが今、彼女に必要な事なんじゃないか、と。私にはそう思える。 摂食障害も抱える彼女は、半日以上うちにいたけれど、お茶を2杯飲んだだけだった。途中おせんべいを出したのだが、彼女はそれを鞄に仕舞った。私は何も言えなかったけれど、心の中で、「いつか、誰かと食べたいって思えるようになるといいね」と思っていた。かつて摂食障害になった者の一人として。
実家から採れたての金柑と檸檬が送られてきた。檸檬は今年二度目。早速金柑を生でかりかり戴く。息子もオットもかりかり齧る。目に見えるはずもないのに、新鮮な金柑から発せられた光がきらきら部屋の中に散った気がした。ありがたや。檸檬は蜂蜜漬けにしよう。そして種はプランターに埋める。芽、出るといいな。出なくても、それはそれ。 たかが宅急便、されど宅急便。「荷物を作るだけでも大変なのよ、もう体力ないの」母が愚痴る。そんな母が必死に荷造りしてくれたのだと思うとありがたさが倍増する。彼らとは本当にいろいろあったしいまだ距離を保たなければ難しい間柄だけれど、それもまた、良し。そういう親子もありだよな、と思う。
加害者プログラムのプリントをじっと読んでいたら、家人が、「君はさ、自分が重要なことをやってるんだっていう自覚というか自信を、もっとちゃんと持った方がいい」と突然言った。突然すぎて私はたじろいでしまう。「自分の為してることを過小評価しすぎだよ、君は」。続けて彼が言うので、私は黙り込んでしまった。 言ってくれる言葉はありがたいのだけれど。どう応えていいのかちっとも分からない。私が為している事柄は確かに重要な気がする、いや、重要だと思うからやっている。でもそれは私にとってであって世間というか社会にとってはどうだか知らない。こんなバカげたこと、と思われてるのかもしれないし。そもそも、そういうことを考えると怖くてやってられないというのが本音だったりする。社会から見ての自分なんて、想像するだけで怖くなる。 それを見越して、家人は言葉を繰り出している。それも分かっている。「君にアレルギーというかトラウマがあるのは分かってる。でも、自分を、自分の為してることをちゃんと認めてあげないと。だめだよ」。家人の言葉がだんだん不愉快になってきて私は顔を顰めてしまう。 いや、本当は、ありがたくもあるのだ。そんなことをストレートに言ってくれる他人はなかなかいない。それも分かってる。でも。 そう、私は、社会からの脱落者だ、と、自分を見做しているから。彼の言葉をちゃんと受け止められないんだ。それも、分かってる。どうにもこうにも居心地が悪くて、歯軋りをしてしまう。黙り込んで、歯軋り。何やってんだ、自分。 「ごめん、今言える言葉がない」。とだけ彼に伝える。「いいよいいよ、僕がそう思っただけだから」と彼はさらり流してくれたけれど。申し訳なさしか私の裡には残らない。
おまえは社会からの脱落者だ、という意味の言葉をかつて父から言われた。それが私の裡に突き刺さったままなんだ。いつの間にか私自身が、自分をそう見做してしまっている。抜けない棘。 |
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