ささやかな日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2022年03月25日(金) 
燃える卵黄のような濃い橙色をした太陽が、すっと地平線から顔を出した。四方八方に陽光を注ぐのではなく、じっとその場で燃え上がるかのような装いで、その静けさに私はいっとき圧倒される。一度世界に顔を出してしまったら戻ることはできず、進むばかりの太陽、じりじりと姿を露わにしてゆく。歪さのない丸形は永遠を感じさせるほど滑らかで。定点観測、カメラを構え太陽に焦点を合わせる。ぱしゃり。

性加害・性被害のニュースを連日目にする。SNSもそれらの告発等で溢れてる。最初は追っていたのだけれど、途中から吐き気を催してしまった。私の許容量を超えたんだと思った。
被害を被害としてきちんと受け止めてくれるひともいれば、いまだ揶揄するひとたちもいたり。その反応の差、隔たりに愕然とする。私が被害に遭ってからもう何十年も経つのに、その間いろんな被害者が声を上げ闘い、その周囲のひとたちも懸命に闘い声を上げてきたのに、それでもまだこんななのか、と、茫然とする。でも、それでも。私の被害当時とは明らかに時代は変わってきたと、そうは思う。
ただ、ここまでそれらの文言が巷に溢れていると、もう体が拒絶反応を起こしてくらくらしてしまう。これまで体験したさまざまな思い、記憶が生々しくフラッシュバックする。その鮮やかさといったら、ない。
もし自分以外の誰かがこんな状態になっていたら間違いなく私は「距離を置いていいんだよ」、と、言うのに、自分にはそれを許してあげられない。罪悪感ばかりが先に立ち、ここ何日かずっと苦しかった。
でも。勇気を出して自分に言ってみる。距離を置いていい、と。自分を守っていい、と。それでも私に纏わりつく罪悪感、拭うことのできないその罪悪感に手を合わせ、頭を下げ、そうして言ってみる。
自分の日常を何より優先すること。許容量を超えてまで闘う必要はないこと。性被害・性加害についての論争が噴出している今こそ闘わなくちゃと倒れかけてる自分に鞭打つ必要はないこと。罪悪感も抱く必要はないこと。繰り返し自分に言い聞かす。私が何より大事にしなくちゃならないのは自分の日常だ。他の何も誰も、代わってくれるわけじゃぁない。私の日常を生きられるのは私だけであり、私の日常もまた唯一無二なのだから。

ミモザの苗木が届いた。か細くてまだ30センチ程の高さの小さな小さな苗木。ああ、こんなに小さい頃があるのかとしみじみ見つめてしまう。明日土を買って来よう。そうしたら大きな鉢に植え替えてあげるからね、と声を掛ける。声を掛けながら私はいつの間にか、境界線について考え始める。
私の境界線のイメージは何故か、リアス式海岸の様な様子をしていて、決して真っ直ぐに引かれたくっきりとした境界線ではないのだ。あくまでそれは私自身の境界線のイメージなのだけれど。その出たり入ったり凸凹の有様が、私の弱点のように思えてならない。かといって真っすぐのくっきりと描かれた、横断歩道か何かみたいなあの明確な境界線に今なれるかといったら否で、同時に、そうなりたいのかと考えてみるとそこまで欲しているわけではない気がしてきた。
私の境界線を太くすることくらいはしたいと思うのだけれど、あの直線の、強烈さは、別に欲していない気がする。
テオ・アンゲロプロスの描く国境線のような、あの、イメージ。男がその線の上で片足で立って見せた、あのやじろべえのような揺れるイメージ。なのに、もし一歩でも踏み越えてしまったら向こうに立つ兵隊によって撃ち殺されかねない、そういうイメージ。
何だろうこのイメージは。そういえば私の住む地域は三つの区が入り乱れている。一歩踏み出すとA区、戻ればB区、その隣にC区、といった具合。見えない境界線。でも明らかにそこにあるもの。
ああ、まだ明確なイメージにはならないのだけれど。
近々、テオ・アンゲロプロスの作品でも観直してみようか。そうしたらこのもやもやしたイメージがくっきりと浮かび上がってきてくれるかもしれない。


浅岡忍 HOMEMAIL

My追加