ささやかな日々

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2022年03月26日(土) 
植えっぱなしのイフェイオン、葉を伸ばすばかりで蕾の欠片さえ見えなかった。今年は咲かないのかなと半ば諦めていたところ、ここにきてようやく蕾の姿が。艶のある群青色の花弁、今まさに開こうとするところで、私の目の前で吹き付ける風に揺れながら花弁を開かせた。数日前、もしかしたらプランターの居場所が日陰だから花がひとつもつかないのかも、と思いついて、プランターを陽射しの降り注ぐ場所に移動させたのだけれど、それがよかったのかもしれない。私はこのイフェイオンの花弁の色が好きだ。透明感溢れる、やさしい色。今年も見ることが叶って本当に嬉しい。
娘から珍しく誘いがあり、午後川沿いの桜祭りに行くことに。待ち合わせの場所に行くと、向こうから両手を拡げて孫娘が走って来るところで。この子は自分が可愛いことをよく知ってるなあと心の中くすっと笑ってしまう。私も両手を拡げて彼女を受け止める。勢いよく飛び込んできた彼女の身体は、予想より重くて、もうちょっとで私が後ろに転んでしまうところだった。そうか、もうそんなに大きくなっているのか、と、孫娘の身体をぎゅっと抱きしめながら思う。
川沿いの桜はちょうど咲き始めたところで。曇り空を背景に、薄ピンク色の儚げな花弁をふわり開かせている。曇天の鼠色を吸い取ってしまいそうなくらい薄い花弁。この花弁を集めてもし染色したら、どんな色が立ち現われるのだろう、と、ふいに思う。
橋の袂に陣取って、買ったたこ焼きをみんなで食べていると、川を走る船の姿が。息子と孫娘が大きく背伸びをしながら手を振ると、気づいた乗客たちがみんなにこにこ笑いながら手を振り返してくれる。船はほどなく橋の下を潜り海の方へ消えていった。
普段あまり自分から己の感情を見せようとしない娘が、イカ焼きの前で立ち止まり、どうしても私はこれが食べたいと言って700円もするイカ焼きを買い込む。一口食らいついたその瞬間の彼女の顔ったら。あまりに美味しそうな、嬉しくて嬉しくて仕方がないという表情。家人が「そんなに食べたかったの?」と訊くと「だって私、魚で一番、イカが好きなんだもん」と。「え?そうだったっけ?」「イカ食べたさだけで、真剣に、青森方面の漁師さんと結婚しようかって考えた時期あった」「え?!そこまで?!」「だって好きなんだもん」。家人と私は顔を見合わせてしまう。娘にそんな一面があったとは、今日の今日まで知らなかった。「青森の方のイカは、食べた瞬間蕩けるんだって。ああ、食べたい!」。本当に蕩けてしまいそうな表情でそう言う娘を、家人と私は改めて見つめてしまった。
雨が降り出す前に、と、手を振って別れ、帰宅。その頃には家人はすっかり酔っぱらってしまっており。炬燵に入るなり鼾をかいて寝始めた。息子はそんな家人を見ながら「昼間っから飲むからだよ、まったく!」なんて言っている。私もウンウンと大きく頷く。

私たちの国に国境は、ない。島国ゆえ、海に国境線があるから、私たちは自国の国境線をこの足で踏むという体験をしていない。その、国境線を踏む経験をしていないというその点が、私たちの弱点のひとつに思える今日この頃。テオ・アンゲロプロスの「こうのとり、たちずさんで」だったか、境界線に片足で立って見せる男と、それに対して銃口を向ける兵士の姿があったような記憶があるのだが、そんな実感、とてもじゃないが得られないまま私たちは大人になっている。国境線を踏む、越える、侵す、といった経験をたった一度もしないまま。だから、それが、或る時は命を賭けての行為なのだなんて、とてもじゃないが想像がつかない。
境界線を越える行為。その行為は時に命を賭したものなのだという自覚。そこから私たちは程遠いところで生きていたりする。でも改めて考えれば、ひとがひとの境界線を侵すことは、時に相手の命を奪う行為になり得るのだと。そのことを、想像する。
性暴力とは魂の殺人だ。心の殺人。精神の殺人。言い方は様々あるんだろうけれど、加害者が被害者の境界線を侵すことから始まる犯罪であることに変わりはない。でも加害者に、境界線を越える行為が命を賭したものだなんて自覚は決してないに違いない。むしろ、「この境界線を侵されることを被害者も望んでいる」という歪んだ認識が、彼らに行為を行なうことを可能にさせてしまう。認知の歪みの怖さ。まるでそこには嘲笑こそがあり得るかのような怖さ。
唐突に、昔見た「ドイツ・青ざめた母」が思い出される。何故だろう。ヘレネのあの最後の目の表情。
もう一度、あの目、確かめたい。もう一度。


浅岡忍 HOMEMAIL

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