2022年06月08日(水) |
祖母のことを思い出していたらあっという間に朝を迎えた。そのまま眠らずに今に至る。でも何だろう、心がほっくりしていて、穏やかだ。 祖母、そして祖父。ふたりともとっくにもうこの世にはいないひとたち。でも、私の中にずっとずっと生きているひとたち。
祖母は、三十代の頃からもうすでに癌にとって喰われていた。一体何度手術をしたんだろう。幼かった私は覚えていない。でも、四六時中入院しては退院を繰り返していた。そのたび祖母は言うのだ。「私の人生短いんだから、好きなことしなくっちゃ」。祖母の好きなことというのは、師範をしていた日本舞踊をはじめ、お茶やらお花やら。あちこちに飛んで行ってはおせっかいをやいていた。退院している間はだから、じっとしている隙間がなかった。いつだってたったか歩いてひとりで出かけていってしまうのだった。私は祖母と祖父の家に行くと、ひたすら祖母にくっついて歩いた。 祖母はとにかく、明るかった。あっけらかんと明るかった。表裏のない、まさに言葉通り江戸っ子だった。そして、あれだけ癌に喰われても喰われても、生きることをあきらめない、手放さないひとだった。 祖母は。どんな思いで病と向き合っていたのだろう。私は癌が、どころではなく死が彼女に喰らいついてきた、まさに最後の介護の頃、よく泣いている祖母を見かけた。私が風呂の介助をすれば「あんたに見られたくない」と泣いたし、私が祖母の痩せた髪を梳けば、私の髪はもうこんなになっちゃったと泣いた。そして。 ピアノを弾いて、と、よく頼まれた。泣かれた。泣き始める祖母を見て、私は弾けなかった。弾いたら、弾いてしまったら、祖母を即座に死に奪っていかれそうで。怖かった。祖母が懇願するそれに反発するように、私はあの頃、ピアノを弾かなかった。祖母は細く細く、ずっと泣いていた。 どうしてあんなに私は反発したのだろう。今思っても、悔やまれる。でも。本当に怖かったのだ。今すぐに祖母を、奪っていかれそうで。それだけは、嫌だった。ピアノを弾きたい、祖母のためにならいくらだって弾きたい、でも、一音弾いて振り返ったら。祖母はもう死んでいるような、そんな気がして。恐ろしくてとてもじゃないがピアノの蓋を開けられなかった。そのくらい、祖母が死んでしまうことは、私にとって恐ろしかった。 病院のベッドの空きがようやっと出て、家から病院に祖母を運ぶ時。祖母はぼんやり振り返った。きっと知っていたのだ。もう二度とここに戻ることはない、と。これが最後だ、と、今ならそれが分かる。当時の私にはそれは受け容れられないことで、反発していたけれど。今ならすんなり受け容れられる。祖母はきっと、知っていた。誰より分かっていた。もう最後だ、と。 祖母がいなくなってからというもの、私は狂ったようにピアノを弾いた。毎日毎日毎日。病室に届くわけがないのに、いまさらなのに、私はピアノを弾いた。弾くことくらいしかもはや、自分の気を紛らわすことができなかったから。泣きながらも弾き続けた。 最後の入院は12月から2月末まで続いたけれど、そのほとんど、モルヒネで眠らされていた。祖母の意識はもう、ほとんどぼんやりしていて、話もできなかった。医者が、こんなになっていたらとてもじゃないが痛みが酷くて耐えられたものじゃないから、と繰り返し言った。でも、私はモルヒネで眠らされた祖母の匂いが、受け容れられなかった。違う、祖母の匂いじゃぁない、もう、祖母の匂いじゃない、それが、耐え難かった。あの頃私はたぶん、四六時中憤っていた。何に? よく分からない。ただ、祖母の命の火がもうじき消えてしまう、そのことに、その現実に、私は憤っていた、そんな気が、する。私から祖母を奪う現実というものに。 祖母の骨は、もうぼろぼろで。焼かれた後の祖母の骨は、細かく砕けてしまってほとんど形が残っていないだけでなく、あちこちに紫や濃いピンク色の痣というか痕があった。これが癌に喰われるということなのか、とその当時の私は唇を噛んだ。今なら、それが薬の影響なのだろうと想像できるが、私はもう、憎むべきは病、としか思えなかったのだ、当時。 祖母がいなくなってから数か月、私の記憶はない。
祖母の死から、私の周りには幾つもの死が現れた。友たちの死だ。病死は数える程で、そのほとんどが自死だった。最初の友Yは、飛び降りだった。当時小さく新聞記事にもなった。そしてそこから、階段を転げ落ちるかのような勢いで、次々、友が死んでいった。首つりやら、オーバードーズとアルコール摂取の末心臓が止まったり、歩道橋から飛び降りたり。思い出すと頭がパンクしそうになる。だから、できるだけ思い出さないようにしている。 死は。いつの間にか当たり前に、隣にあった。昨日元気に笑っていた友人が今日はもういない、そういう毎日を過ごしていたら、自分の中の生と死についても、当たり前に思うようになった。私は死に向かって日々生きている。命があるというのはそういうことだと。 できるのは、笑って死ねるように今日を今を精一杯生きること。私が行き着いたのは、そこだった。 |
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