ささやかな日々

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2022年06月10日(金) 
いつだったか、部屋を片付けていたら、テレフォンカードが出て来た。封筒に入った未使用の、スズランの写真のテレフォンカード。封筒には「ぢぢより 誕生日おめでとう」と書いてある。達筆な文字。
顧みれば、祖父とはよく手紙のやりとりをしていた。祖母が早くに亡くなり、ひとりきりになった祖父は、毎月1日と15日には朝早く祖母の墓参りに行き、帰って来るのは夕刻だった。ほぼ一日中、祖父は祖母の墓に語り掛けているのだった。
そんなに愛してるなら生きているうちにもっと仲良くしていればよかったのに、と私の母はそんな祖父を見ては言った。寡黙な祖父は、祖母のおしゃべりにいつも斜めに構えていた。酷い時は背中を向けて新聞を読んでいた。あれは祖父特有の照れ隠しだったんだろうか。今となっては分からない。
自分はお喋りが下手だから、と、祖父は喋るかわりによく手紙をくれた。祖父の手紙にはいつでも、S殿と書かれていて、私はその「殿」という字を見るたびこそばゆかった。とりたてて何が書いてあるわけでもない、普通にお喋りすればいい内容がそこにはつらつらと書かれていて、勇んで封を切ると拍子抜けするのだった。でも、それが祖父の手紙だった。
祖母が亡くなって、うちの実家の近くで独り暮らしを始めた祖父の部屋に、折々に訪ねていっては、祖父とお茶を飲んだ。祖父の淹れてくれるお茶はとびきり美味しくて、だからその頃別にお茶が好きでも何でもなかった私だったが、じいちゃんの美味しいお茶と思うと飲みたくなった。熱すぎず、ぬるすぎず、心地よい味がした。
祖母もそうだったけれど、祖父も煙草を嗜んだ。お酒にしても食事にしても八分目と決めている祖父だったが、煙草は自分の好きにぷかっと吸っていた。祖父に頼んでよく、煙でドーナツを作ってもらった。ぽっぽっぽっと祖父の口からドーナツ型の煙が吐き出される。それだけで楽しかった。
祖父は戦争時、海軍に所属していたそうで。と言っても、祖父はあまり戦争の話をしてくれたわけではなく、むしろほとんどしてくれなかったからこそ、その時の話がくっきりと私の裡に残っている。
もう少しのところで敵の攻撃を受け、船が木端微塵になったこと。波間に浮かんでいることも苦しくなったその時、仲間の声が聞こえてきて、その声に導かれるように手足をばたつかせ泳いだこと。気づいたら何処かの浜に打ち上げられていたこと。そして気づいたのは、仲間のほとんどはそこにはいなかった、声の主たちはみな、そこにはいなかったこと。そして祖父は言った、「生きなきゃならん、生きなきゃならん。どんなことをしても、皆の分まで」。
祖父は、或る日突然倒れた。意識を失った。救急車で運ばれた先で、もう全身癌に侵されていると知らされた。それから一週間意識を失ったままの祖父は逝った。まさに最後の最後まで自分で生きたひとだった。

私が一番具合が悪かった頃。よく祖父や祖母を思い出しては泣いた。どうして私を置いて死んでしまったんだ、と記憶を責めた。同時に、いつまで経っても死にきれない自分を責めた。
でも今は、分かってる。祖父も祖母も私を置き去りにしたくて置き去りにしたのではないということ。ふたりともが私に、その死に様を見せ、つまりその生き様を私にこれでもかというほど見せてくれていたこと。だからこそ、私はきっと何処かで分かっていたんだということ。「生きなきゃならん、生きなきゃならん。どんなことをしても、皆の分まで」。

結局私は、なんだかんだやったけれど、生き延びて、生き残って、今ここに居る。今私は幸せか?と誰かに問われたら、間違いなくこう応える。
うん、幸せだよ。生き延びてよかった、と。


浅岡忍 HOMEMAIL

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