2022年06月11日(土) |
母の庭はいつでも花が咲いている。何かしらの花が。その庭に出て、息子と母が笑いながら水やりをしている。私は庭の外に出て、庭を眺めている。二人を眺めている。長く生きると、こういうほのぼのした場面にも出会うことができるのだな、と、ぼんやり思う。もし私が早々に死に至っていたら、こんな思いも味わうことができなかったのだな、と思うと、ありがたいなぁと思うのだ。 母の庭を受け継ぐことのできる人間は恐らくいない。私もどう頑張っても無理だ。母の庭は母にしか育めない。そう思うと、あと何年、この庭をこうして眺めることができるのかな、と思う。母はもう八十。どれだけあと時間が残っているのだろう。 帰り際、母と父に手を振った時、このやりとりもあと何回あるのだろう、と思った。きっと数える程しか残っていないに違いない。そう思ったら、振り返ることができなかった。振り返ったら逆に、今すぐ失ってしまいそうな気がして。 電車に乗り込んでから、さっきの怖さというか何というか、こう、拒絶したい気持ちのような、それに似たような感情がぶわっと湧いたことを振り返って、何かに似てるな、と思ったら、亡き祖母の、ピアノを弾いてほしいというあのエピソードに似ているのだと気づいた。祖母に何度もピアノを弾いてと言われたのに怖くて弾けなかった、あの時の怖さに。とてもよく似ている、と。 思春期、彼らからの過干渉とネグレクトに苦悩し、書物を読み漁った時期があった。被害者になってからも彼からのセカンドレイプに泣いた夜が幾つもあった。もう無理だ距離を置こう、と決めた日もあった。だのに。 ああ、それでも私は、彼らが死んでしまうことを拒絶したい気持ちが何処かに残っているのだな、と、そう気づいたら、ちょっと楽になった。彼らはいずれ死ぬ。そう遠くない将来、私より先に逝ってしまう。その時、私がちゃんと見送れるように。悔いの残らないように今のうちにできることを、今、やっておくほかにないんだよな、と。そのことを強く、思う。
悔いの残らぬように行動する、って、言うのは簡単だけれどとても難しい。ついつい遠慮したり恥じらったり躊躇ったり。私もそんな諸々の感情に引きずられて、結果悔いを残した、という経験が幾つもあったりする。 でももう、この年齢。いい加減恥じらいも躊躇いも捨てちまえ、という気持ちになってきた。遠慮なんてしてたら悔いを抱えたまま死ななくちゃならないと思うと、それは嫌だ、と思うのだ。 そんな自分だからか、Aちゃんの今の状況がたまらなく感じられ、ついおせっかいをやいてしまった。悔いの残らぬよう、もうこれが最後と思って行動した方がいいと思うよ、その時だと思うよ、なんて、言ってしまった。 Aちゃんのことに口出ししたくない、と思っていながら、同時に、それだけは譲っちゃだめだよ、と感じられることがあり。ああおせっかいなんて今どき流行らない、とつくづく思うのだけれど。つい。 「そうですね、それだけは私、譲れないんです、だからやっぱりはっきり主張してきます」と。彼女はそうして出掛けていった。 翌日彼女から連絡があるまで、心の裡でずっと心配していた。大丈夫かな、これ以上傷ついたりしていないかな、と。だから、彼女から「私はっきり言い切って来れました。弁護士さんもそのようにしてくれるって!」と連絡が来た時には、ほっとした。 君は。もう十分頑張っている。この数年、どれほど頑張り続けて来たか知れない。この件が終結したら、きっと脱力感、虚無感に襲われるに違いない。でも、その時に、この、最後の最後悔いの残らぬよう自ら行動できた、という体験が、あなたを後押しし、支えてくれるようになることを、私は祈ってる。
そして。 自分も。悔いの残らぬよう。そう、私自身がそう生きねば、と、誰より私がそう生きねば、と、そう、思う。 |
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