Shigehisa Hashimoto の偏見日記
塵も積もれば・・・かな?|それまで|これから
2002年10月09日(水) |
月日は百代の過客にして、いきかう人もまた旅人なり |
先日、友人から「松本人志が連載している映画批評の中で『千と千尋の神隠し』が0点をつけられていたことについて反論してくれ」というリクエストを頂いたので、お応えしたいと思う。
と言っても実は反論らしい反論はない。松本がつまらないと思ったのも松本にとっては真実であろうし、それについてとやかく言うつもりはない。るる述べてきたように映画の評価などというものは最終的に個人の価値観に帰結してゆくものだと思う。ただ、一般論としての立場からものを言わしていただくと、記事を読む限り松本はアニメーションを愉しむという視点を持っていないのかな、という気はする。千尋の両親が食べ物を貪るシーン、大粒の涙を流しながらおにぎりをほおばるシーン、浴槽からお湯が溢れ出るシーン、そしてハクとともに天駆けるシーンなど、実にみずみずしく流麗に描かれており「超現実」の描写としての冴えはディズニー映画のそれをはるかに上回るクオリティーを持っている。この点だけにおいても劇場に足を運ぶ価値があるといってもあながち間違いではないのだ。
加えて松本はストーリーを子供っぽいと批評していたが「千と千尋の神隠し」は基本的に子供向けの物語なのでそれは仕方のないことだろうと思う。本作品はわがまま、受動的、指示待ち人間で典型的な現代っ子の千尋が家族を捉われたことによっておそらく初めて主体的に行動しようとする奮闘記である。作品の世界観は現実と微妙な線でリンクしていて、それを自分の生活ににオーバーラップさせることで作品の価値を見出すことが出来る。厳しい湯屋の戒律は実社会で生活するための掟に相当するし、名前を奪われるという事象は管理社会における人間の記号化を表している。非常に過酷な状況であるが家族を取り返すためには千尋は働き続けなければいけない。しかし、湯屋で懸命に仕事をこなすにつれ千尋は人と人とのつきあい方、コミュニケーションのとり方を覚えてゆく。転じて生き生きとした人間性を一時的ではあっても回復することに成功したのである。宮崎監督は現代の厭世的な子供達に「もっと社会にたいして真剣に向き合ってみろ」と言いたかったのだろうと推察する。
これらのメッセージをあまり奇をてらうことなく直球で提示して見せたのが本作の骨子である。ここら辺の具合を子供っぽいと断じてしまえばそれまで。私などは精神的にまだ幼いので次第に自律してゆく千尋に対して感情移入し、またエールを送りながら観ていたクチである。しかし人生を自らの腕一本で切り開き、名声を獲得してきた松本には千尋のふがいなさを歯がゆく感じたのかもしれない。あるいは松本が感じた冒頭での「子供をほったらかして食い物をあさる両親」に対してのいらだちが映画全体を俯瞰で見渡す注意力をそいでしまったようにも思える。どちらにせよここまでくると人生観の問題になってくるのでおいそれとは口出しできなくなる。結局のところ個々人が歩んできた道のりによって評価はいかようにも変わってしまう。これは「千―」に限った話ではない。映画も含め全ての芸術はプリズムである。その人が立った位置、のぞきこんだ角度、背負った歴史によって光は千変万化の輝きを放ち、人の心の中で縦横無尽に反射する。今さら私が言うことでもないが、ある人が駄作とこき下ろした作品が別の人にとっては代えがたき価値を持つことがあってもなんらおかしいことはない。逆もまた然りである。だから松本人志の評価は決して間違ってはいない。ただ、映画「千と千尋の神隠し」は日本の興行収益の記録を塗り替え観客に賛否両論、まっぷたつの評価を与えた作品であり、それだけ各人の心に訴えかける「何か」を内包していたことは確かなのであろう。
追伸 今日TBSで放送していた「ダウンタウンセブン」は多少えげつない部分があったにせよダウンタウンらしさが出ていて面白かった。一年前にこの番組が始まったときには大いに期待を寄せたものだが、回を重ねるごとに目も当てられないほど酷い出来になっていって、正直なところ「ダウンタウンももう終わったな」と切実に感じたものであった。だからこそ今回の復権はうれしかったし、私としては素直にエールを送りたいと思っている。
橋本繁久
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