Shigehisa Hashimoto の偏見日記
塵も積もれば・・・かな?それまでこれから


2002年10月19日(土) ダメな奴の横顔

人生に真剣に立ち向かっているか、と問われれば残念ながら「NO」と答えざるをえない。今まで生きてきた姿勢の中に、逃げ腰の要素があることを否定できないのだ。そんな自分に嫌気がさし、何度かガップリ四つに組んでの大立ち回りを演じたこともあるが、喉もと過ぎればなんとやら、時を隔てれば結局もとの木阿弥である。人は簡単に成長することはできない。私は今を持って受動の世界に生きる人間である。我が身の情けなさを痛感している。

何も肩肘張って生きることを望んでいるわけではない。青春時代にありがちな、物事を誇大に解釈して必要以上に悩んでいるわけでもない。私は石橋を叩いて安全であることを確かめてもなお渡らない性格であり、それで今まで何遍も苦い思いをしてきた。退いてしまった後の空虚感を知っているのに、それでも前に出ることが出来ない。「案ずるより産むが安し」の諺も空しく響き、頭の中でごちゃごちゃと思案の虫。ウジウジとして突き抜けたものがなく、尻込みしてそして結局は後悔する。極めつけの小心者なのである。

さらに付け加えると、私は怠惰の塊でもある。今日やるべきことを明日に廻す。とりあえず今日の闘いから逃げられればそれでいい。明日のことは明日考えよう、ケセラセラでいいじゃないか、と信じて憚らない。無論、ケセラセラ(なるようになる)は悪いことではないのは承知しているが私がこのフレーズをを思い浮かべる時は字面よりももっと消極的な意味としてのものである。言葉を安易に飲み込んで依拠しているというか、言葉を盾に自己擁護してしまう。問題を先送りし、目先の楽しみに興じる。さながら「アリとキリギリス」のキリギリス野郎である。いつか痛烈なしっぺ返しが待っているのは間違いないだろう。その日が来るのも、ひょっとしたら遠くない話かもしれない。

次に何か「前に出るべき時」が来たら今度は正々堂々受けて立ってみよう。そうだ、今度こそそうしよう―そう思っている時点で既にダメである。「今度」は向こうからやって来るものではない。自分で創りあげなければならないのだ。果たして私にそんな能動的なことが出来るのか。それこそやってみなければ分からないが、多分今のままでは無理であろう。生半可な気持ちでは火中に栗は拾いに行けない。それなりの覚悟なり度胸なりが必要である。まずはここから始めなければいけない。だが逆に言えば、この気持ちさえ持つことが出来たら人生の荒波にもまれることがあっても立派に生き抜くことが出来るだろう。格好をつけるつもりはないが、それこそ人生を謳歌する唯一の手段なのに相違はないだろう。肝の据わった人間になる、そう決意してやまない秋の夜長である。


橋本繁久

My追加