Shigehisa Hashimoto の偏見日記
塵も積もれば・・・かな?|それまで|これから
花びらをわずかに残した葉桜が立ち並ぶ一本道を、透子はうつむき気味に歩いている。葉っぱの隙間から射し込んでくる柔らかな陽光が、4月特有のぼんやりとした暖かさを演出し、おまけに昨夜降った雨水を含んでいるアスファルトの道路をジリジリと照りつけて、白く上気した湯気を立ち上らせてやまない。透子はその悠然とした眩しさに一瞬たじろいだ。この日差しはまるで、人々の心を否が応にも浮き足立たせ、しかし同時に押しつぶすような鬱屈した圧迫感を与える、何か妙なエネルギーの塊のようだ。薄手のコートを羽織った青年サラリーマンやハイヒールを地面にめり込ませるようにして歩く大女、サドルから腰を浮かせて懸命にペダルをこぐ初老の男性、そして笑顔満面に体全体を大きく動かして登校する小学生達といった、透子と同じ道を行く人たちも、この日差しの重圧を従順なまでに強く受けているように感じる。こんな不思議な思いに至るのはどうしてだろう。ひょっとして私自身が新入生だからだろうか、と透子は考える。この春から東京第一高等学校、すなわち「イチコー」に通い始めた透子は、新生活の緊張感からようやく開放され、瑞々しくリズムに富んだ日常を取り戻しつつあった。新しき学校、新しき友人、新しき部活動、全てが新しいものに囲まれている現状を、透子はやっと素晴らしく有意義なものに感じられるようになっていたのだ。それなのに、このセンチメンタルチックな感情は一体なんなのだろう。緑麗しく生命躍動する春だと言うのに。それとも、春とはこういう種類の感傷を多かれ少なかれ思い起こさせる季節なのだろうか。
透子が自宅からの1800米ほどを、いつものように喫茶「アーク」を越え、石橋理容室を過ぎ、南部幼稚園を通るように歩いたところで、前方の、ポストの手前の曲がり角に、そこにあるべきものが佇んでいた。あるべきものは透子の姿を認めると、茶目っ気たっぷりに「遅いゾ!」と声を挙げた。透子はすぐさま「ごめん、メイ。」と返した。メイは「我が左手にはめたる、真新しきセイズンの時計が、恐れ多くも集合時間より2周半も多く運動しなさったのだぞ。おぬし、セイズン様を馬鹿にしているのではあるまいな?」と笑いながら言った。このがさつで少々デリカシーに欠ける少女は、しかし代わりに天性の大らかさと人懐っこさを兼ね備えていた。「ごめん、ごめん。あんまり天気がいいもんだから、ついつい寝坊しちゃったのよ。ほら、『春眠、暁を・・・』って漢文あるでしょ。まさにあれ。」「色気より食い気より眠気ってわけか。でもそんなに熟睡できるところをみると、今日の実力テストは相当自信がおありかな?。」「まさか!平均点すら取れる自信ないってのに。」「うむ、わかるわかる。あたしも教科書開いてみたけど、チンプンカンプンで何がなんだかさっぱりよ。特に数学。0点の危険性すらあるんだから。」「イチコーの数学は難しすぎるよね。私のクラスでも悪戦苦闘している人ばっかりよ。」 ここでメイは長嘆息して、 「ああ、やっぱりイチコーは冒険しすぎだったかなあ。林泉高校ぐらいにしとけばよかった。」と情けない声で言った。透子は「何いってるのよ、ちゃんと合格したからこうやって通っているんじゃない。」と励ました。しかしその励ましはメイのためだけでなく、透子自身にも幾分向けられていた。「難しいと思っているのは私達だけじゃないわ。それに、この試験が悪かったからって除籍になるわけじゃないんだから、気楽に構えないと損よ。」「透子ったら流石一流の学者さんの娘だけあるわ。言うことが違うもん」「茶化さないでよ。」「いや、ホント、ホント。尊敬しちゃう。」 メイはいたずらっぽく舌を出した。日差しが与える妙なエネルギーが、依然として透子の内面に溜まっている。 「ところで透子くん、今日の帰りは何を召し上がりますかな?バーガー?おうどん?それともお好み焼き?」「うーん、どれも魅力的ねえ…迷っちゃうなあ…。」「でしょ、でしょ。おまけに、交差点の向こうのラーメン屋さん、5月2日にオープンだって。ゴールデンウィークにきっちり間に合わせてきたわけよ。」「やーん、ラーメン!どうしよう。」「参っちゃったなあ、ラ―メンなんか出されたらあたし自分をコントロールできる自信ないわ。こちらのお腹の都合も考えてもらいたいわよ。」「同感。それにしても、メイは食べ物の事となると情報早いわねえ。」「こいつめ。図星なことを言いおってぇ。」
その時、通りの向こうから微かにベルの音が聞こえた。イチコーの始業の予鈴だ。 「いけない!余計なこと喋ってたら遅くなっちゃった。透子、ダッシュ!」メイはだしぬけに駆け始めた。不意をつかれた透子は、しかし拳を握りしめて歩調を早めた。次第にスピードは増し、体が流れるように動きはじめる。ここにおいて、透子はやっとエネルギー解放の場を得た。透子は向かい風に抗って上体を前方に傾けて走った。シューズが道路を踏みしめるたびにわずかに水が飛び跳ね空中で気化する。次第に息があがり汗が吹き出て、足が思うように上がらなくなってくる。透子は空を見上げた。太陽はなおも支配的な光りを降り注いでいる。もし透子が活発に動いていなければ、その重苦しさに負けて硬い地面に倒れてしまっただろう。しかし、今の私は走っている。太陽の圧力を振り切るために走っている。吹き付けるように青い空はうねり、厚ぼったい雲がちぎれ、そして人々は風景に溶け込んで、透子の視界の一物となった。緑が鮮烈に色づいた木々が長く続き、その向こうに、巨大な全貌のわずかな一角を為すイチコーの校舎が見える。ゴールまでもう少しだ。透子は自分の頬がいよいよ紅潮しているのに気付く。茂みから次々と飛び出す細かい虫たちの群れが、穏やかな春の色合いがゆっくりと遠のきつつあり、代わりに夏が接近していることを予感させる。透子は、あのメランコリックな感傷が自分の心から徐々に消えてゆくのを感じた。校門の隣りで下垂して咲きかけているどうだんつつじが、早くも初夏の香りを漂わせていた。
橋本繁久
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