Shigehisa Hashimoto の偏見日記
塵も積もれば・・・かな?|それまで|これから
2004年02月03日(火) |
馬鹿な哲学 間抜けの科学 |
万物の根源は水であるとか、人間は考える葦であるとか、我思う故に我ありだとか、青春は人生のある時期ではなく心の持ち方を言うだとか、生きるべきか死ぬべきかそれが問題だだとか、優しくなければ生きている資格が無いとか、我が巨人軍は永久に不滅ですだとか、今度生まれ変わったら一緒になろうねだとか、その他様々な種類の哲学的格言が有史以来この世に誕生してきた。しかし、哲学が人間及び自然界の本質を実証的に把握した例はただの一度も無い。そういった面倒くさい事は一体に科学の分野が引き受けてきたのである。科学は真面目で朴訥だから、嫌な顔ひとつせずに地味な作業をただひたすら繰り返して地道に真実を追求してきた。いっぽう気障な哲学は、名言を言うだけ言ってご満悦、後は野となれ山となれで平気の平左方式の、はなはだ無責任な放言を積み重ねてきただけだ。これは科学に対してあまりにも失礼であり、当然許されるべきものではない。だが、もっと許せないのは数多の科学者達が往々にして罹患する「哲学愛好症」である。百戦錬磨の科学者達にとって、根拠とその証明を無視する哲学は憎んで然るべき存在のはずである。しかし、この悪魔の病気に魅入られてしまった科学者はあまりにも多い。歴史上、優秀なる科学者の多くがこの悪性疾患によってうっかり質の悪い発言をしてしまったという忌むべき事実が過去に多々見受けられるのだ。
例えば白熱灯や蛍光灯、蓄音機にダイナモと発電機、無線誘導電信システム、磁器鉱石分別機、炭素式電話送信機、それにアルカリニッケル鉄電池などを次々と創り上げた稀代の発明家・トーマス=エジソンは、持ち前の探究心で数々の偉業を成し遂げたまぎれもない大科学者だったのに、ある時「天才とは1%の霊感と99%の努力である」などという哲学的格言を吐いてしまった。天才が本当に霊感と努力によって構成されている証拠など何処にも無いのにだ。つまり見切り発車の発言なのである。こんな事を書くと、「エジソンは自分の実体験から一般論を述べているだけではないか。彼は間違っていない」という声が読者諸兄の間から聞こえてきそうではある。しかし、エジソンに当てはまるからと言ってその他大勢の天才達に当てはまるとは限らないのである。もしかしたら100%霊感頼りの天才がいるかもしれないし、ひょっとしたら霊感と努力を折半した天才が今後現れるかもしれない。真理と照らし合わせて疑わしい以上、前述の格言は正鵠を得ているとは言いがたいのである。エジソンは「私は1%の霊感と99%の努力である」と言うべきだったのだ。白熱灯用の耐性の高いフィラメントを探して長い間研究に研究を重ねてきた彼にしては、いささか不用意な発言であった。また、時のローマ教皇に弾圧されながらも頑なに地動説を主張し続けた科学の求道家・ガリレオ=ガリレイは天下のリベラリストだったのに、異端尋問の後でぼそっと「それでも地球はまわる」と呟いてしまった。この発言においては「それでも」という接続詞が物凄く邪魔である。「地球はまわる」の部分は一定不変の真理だから何の問題はないのに、「それでも」なんて言葉をつけてしまったから、なんだか胡散臭い哲学臭がついてしまったのである。教皇にたっぷり絞られた後だから疲れていたのは解るが、しかしもう少し気をつけるべきだったのである。
才智爆発ながら哲学病に罹ってしまった科学者は他にも沢山いる。ストーブや避雷針を発明し、後にアメリカのペンシルバニア州知事まで務めたベンジャミン=フランクリンは相当の格言好きと見え、様々な文句を書き遺している。スコットランド出身の地質学者・ヘンリー=ドモランドは「愛さないくらいなら生きていないほうがよろしい」などという後年のハードボイルド小説の主人公が言いそうな気障な科白をはいている。そして彼の有名な物理学者・パスカルも哲学的格言を使った。これ以外にも色々いるのだが長くなるので止めておく。
本来的に科学と哲学は水と油のような存在である。端的に言ってしまえば人間と自然界のかかわりを事実の積み重ねによって解明しようとするのが科学であり、自由な発想と想像力を駆使して何らかのアプローチを試みるのが哲学なのだ。私は別に科学至上主義者ではないが、想像力で勝負している以上、哲学が科学よりいささか迫真性が弱くなるのは仕方があるまい。そして迫真性に欠けた分が、受け手によって情報の格差を引き起こすもととなり、結果的には滑稽な笑いとなってフィードバックする。私は千万言を越える種々の哲学を、お笑いコンビ「いつもここから」の「あるあるネタ」と同質の域を出ていないと考えている。プラトンの「愛に触れると、誰でも詩人になる」という言葉は、「悲しいときー(悲しいときー)机を掃除していたら、昔の彼女への思いをつづった超恥ずかしい日記が出てきたときー(机を掃除していたら、昔の彼女への思いをつづった超恥ずかしい日記が出てきたときー)」というネタの原型でしかないのだ。
橋本繁久
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