武ニュースDiary

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| 2009年09月25日(金) |
偶像物語 金城武� 聞洪掘� |
大陸のファンの間で話題になった、たぶん以前台湾で放映された番組(1995年ですね)、 土豆網にアップされていたのですが、ここの動画は、最近日本からは見られなくなってしまっていました。 それをDerrickのBBSでefLucyさんが見られる形に保存してくれていると、 赤壁さんのブログで知って、早速おじゃましました。
この映像は私は見たことがなかったです。 本人が現地を訪れて語っているのは、なかなか貴重ではないかと、 5つにわかれていますので、その区切りごとに訳してみます。
スター・ストーリー 金城武 ��

Click!
金城武の数々のミュージッククリップ。 やがて「夏天的代誌」の映像と、今の映像が重なり始める。
ジャングルジムを背に。
武 ここは雙連幼稚園といいます。この幼稚園はぼくが15−6年前、15、6、7年前ですね、 初めて入学したところが、ここです。 今日ここにきて、昔自分がここで遊んだり、それから多分友達とけんかしたりした、 ちっちゃな場所を見てみたいと思います。
すべり台をコツコツたたいて。
武 これはもう10年経ってる。前からあるんです。 ぼくはいつもこの穴を出たり入ったりしていましたから。
遊具を次々にのぼって。
武 この幼稚園はけっこう特別なところで、北京語クラスと日本語クラスがありました。 ぼくが入ったのは日本語クラスです。ぼくと兄貴と2人で。兄貴は1年上でした。 ぼくたちは登園も帰りも、毎日一緒でした。 ぼくと兄貴は小さい頃からひとつ困ることがあって、日本語があまりうまく話せなかったんです。 つまり……実はこの幼稚園に入ったとき、日本語クラスだったのに、 何が話されているのかわからないことが時々ありましたね。 先生が台湾語と北京語を話せるからよかったんですけど。
教室へ。
職員 日本語クラスは下の階ですよ。
武 2階だったと思うんですが。階段がありましたよ
「小班日組」と書かれた札を指さす。
武 ここは日本語の年少組ですか?
職員 はい、年少組です。
武 前から1階でしたか?
職員 年少組は前は1階で、年中と年長が3階でしたよ。
武 もう覚えてない。たくさん部屋があったのは覚えてる。 階段がひとつあって、部屋がたくさんあって。
2階へ。
武 この部屋。
職員 この部屋?
武 この部屋。この部屋が、ずっと探してた教室です。でも、今は休憩室になっちゃった。 多分、日本語クラスがどんどん人数が多くなったから、入りきらなくなったんだと思います。 この部屋は昔も教室ではなかったんですけど、ぼくらはこの部屋にいました。 こっちの教室に登園した後、ぼくたちはこっちに移動したんです。
中の子どもたちに手を振って扉を閉める。
武 卒業写真の1枚目は、ここで撮ったんですよ。
再びジャングルジムに寄りかかって。
武 雙連幼稚園を卒園すると、ぼくたち日本語クラスの子は ほとんどみんな日本人学校に進みました。台北日本人学校です。

Click!
舞台は日本人学校に移ります。屋上にするすると昇る武!?
武 幼稚園の後、日本人学校に入ったばかりのときは、まだ日本語があまりうまくなかったんです。 だから、ぼくとは遊ばないよ、っていう子が多かった。 遊ばないわけじゃなくても、変に思ったと思います、台湾人じゃないのかって。 「ああ、君は台湾人だね」って。
ところが、学校から帰ると、近所では、日本人だ、日本人だと言われる。 ちょっとそういう……分け隔てがありましたね。 でも、それは2年ぐらいでもうなくなりました。 たくさん仲のいい友達ができたし、つまり一緒に遊ぶ仲間ね。
で、ぼくは子どもの頃からずっと……体を動かすのが好きな方でした。 球技が大好きで、スポーツが大好きでした。
体育館にやってくる。
日本人学校の体育館です。ここに移転する前は体育館はなかったんです。 これができて、たくさんいろんなことができるようになりました。 コンサートもやりましたよ! 学校でね。
中に入る。
卒業するちょっと前に剣道部ができたんです。今はもう立派に活動しているようですね。 ぼくにはどちらかと言えばワルな……不良じゃないですよ、ちょっと腕白な友人たちがいました。 ここの舞台の下で、夜にここにやってきて、その親友たちとね、舞台の下でバーベキューしたんですよ。 信じる?
外に出る。
ここは運動場の裏の小運動場です。 あれを見て(と、昇り棒を指す)、あれがぼくらがいつも上に上ってご飯を食べたところです。
他の学校がどうだか知りませんが、日本人学校の先生には特徴があって、 威張っているというんじゃなくて、台湾の先生も生徒をたたくけれど、 こういうふうに棒を持って、こうたたくでしょ?(と身振り) 日本人学校の先生は直接手でこうするんです。(とビンタ&往復ビンタの仕草) こうたたく、ビンタをする。 ぼくは1年生からたたかれ始めて、中学になったら、先生はやらなくなりました。 中学1年でもまだたたかれてたな、だからまるまる7年もたたかれたんです。(笑) なぜたたかれたって?(と、げた箱の上に乗る)ぼくは腕白じゃなかったですよ。
この入口の桟の上にぼくの名前があります。 誰も知らないんです。友達の名前もある。 肝心なのは、誰にも全然見られないってこと。すごくわくわくしました。
時計に手を伸ばして、
この時計は、後ろにぼくらの名前があるんです。(と裏返す) これが友達の名前。これはぼくが93年にまた来たとき書いたものです。 (「TAKESHI KANESHIRO '90 6/13 再度もどる」とある) これは卒業時にサインしたときのもので(と左の自分のサインを指す)、 こちらが93年6月13日にここにまた来たときにサインしたもの。 サイン入りのこの時計が、ここがぼくらの教室だったという証拠なんです。
これはね、いたずらじゃなくて。ほんとに。自分の記録をこの場所に残したかったんです。 そして、友達と、いつかまた一緒に来て、またサインしようって話した。 そういう感じのもの。(時計を戻す)
屋上から、ぴょんぴょんと下まで降りてくる(冒頭のK-20ばりの屋上昇りは、実は下りてくるときの逆回しだったんですね)
でも、この学校にいたときは、いわゆるガールフレンドは、本当に1人もできませんでした。 好きな女の子はいたかもしれないけど、片思いどまりだったんでしょう。 ぼくも、なぜ誰にも好きになってもらえなかったのかわかりません。(笑) 自分を表現するのが下手な方で、ムースもつける勇気がなかったし、おしゃれな服を着ることもできなかった。 でも、卒業して進学したら、つまり向かいのあのアメリカンスクール、台北アメリカンスクールです。 この学校のときに、生まれて初めての恋愛をしたんです。アメリカンスクールで。
アメリカンスクールに入ったのは自分の希望だったのか、と聞かれるんですが、実は違います。 小さい頃から、その学校に行くものだと、もうわかっていたので、 どこかの学校にどうしても入りたいとか、自分で探そうとか、一度も考えたことはありません。 だからかもしれないですが、勉強はそんなにしなかったです。 しなかったんじゃなくて、スポーツの方をもっと努力したってことです。(笑) なかでは球技が好きでしたね。アメリカンスクールに入学したら、スクールチームのメンバーになって、 シンガポールやフィリピンに遠征試合に行きましたよ。 (続く)
*BARBOがなんだかわかりません。ご存知の方、どうかよろしく。m(_ _)m 別の記事では、夜中に体育館に忍び込んで焚き火してボヤを起こした、と書いてありました。 追記 ウッチーさんからアドバイスいただきましたので、訂正しました。どうもありがとうございます♪
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