 |
 |
■■■
■■
■ 合掌
このところ、自分の家のことにばかりかまけていて、すっかりご無沙汰していた親サイトの一惠さんの日記を読んだら、ミュウちゃんが永眠していた。
もう一ヶ月近くも前のことだ。全然、知らなかった。
すごく間抜けな話なのだが、遅ればせながら、合掌。
私は常日頃、のほほんと猫下僕の日々を送っているわけだが、それでも時々、この子たちを送る日のことを、チラッと考えたりしてしまう。 7匹もいるんだから、とは思うものの、7匹だろうが100匹だろうが、この子は唯一のこの子なんだという思いは強い。
話は飛ぶが、私はミッションスクール育ちで、宗教の時間というのが授業にあった。いろいろ聖書について勉強したりするのだが、そういう折に聞いた話に、迷える子羊の話がある(有名な話なので、キリスト教に縁のない人も、もしかしたら知っているかもしれない)。 100匹の子羊を飼っている羊飼いがいて、もし、そのなかの一匹が迷子になったとき、どうするか。残りの99匹をおいといても、その迷子の一匹を探しにいくだろう? つまり神の愛というのも、そういうもので、迷っている子羊(ってのは、我々人間なわけだが)がいれば、気にかけて、正しい道に戻そうと心を砕いておるのだよ、といったような説話だ(すごくいい加減な説明だが)。
子どものころ、私はどうも、このたとえがピンと来なかった。まず、100匹の羊というのが、わからない。そんな大量の羊を見たことがないからだ。羊じゃなくて、と思っても、100だの200だのという単位の生き物を飼ったためしがない。 じゃあ、ヒトケタ下げて、10や20にしても、同様だ。そもそも、生き物を飼う、世話をする、というのが苦手だったのだ。そんな私に羊飼いの心境などわかろうはずもない。
繰り返し繰り返し聞かされたこの話を、ふと思い出したのが、あみっち逃亡事件のときだ。あのとき私は、まさに迷子の1匹の羊を探す羊飼いの心境だった。ほかの子が可愛くないわけじゃない。どうでもいいと思っているわけじゃない。でも、彼らはとりあえず、家にいる。 彼らが家のなかで、伸びたり、丸くなったり、走ったり、食べたり、眠ったりしているのを見るにつけ、「あみっち、どこにいるんだよ」と思った。なんど夜中に、明け方に、「あみっちの声だ」と思って、外に飛び出したことだろう。
ああ、そうか。迷える子羊を探す羊飼いの心境って、これだったのね。 齢40ン歳にして、理解したものだ。
で、こんなふうにダラダラと書き綴って何を言いたかったかというと、一惠さんにとって、ミュウちゃんは、唯一無二のミュウちゃんなんだよな、という、ただ、それだけのことだ。
ミュウちゃん、どうか安らかに。
2003年11月03日(月)
|
|
 |