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■ お弁当 思い出すのはほかほかと温まってる暖房機の上上
小学生のころ冬の暖房は窓際に設置された、形状はオイルヒータに似た暖房機でした。その暖房機の上に、お弁当を載せて暖めて食べていました。 私学でしたので給食はなく、お弁当だったのです。
今のように密封容器もなかったころなので、みんなアルミの弁当箱で、汁が包みに染みていたりするものだから、昼近くの教室にはホカホカと醤油のこげたような匂いが漂っていました。 でも、ちょっと醤油臭い熱々のお弁当をひろげる楽しさは、電子レンジで暖めた物をひろげるのとは違っていたように思います。そもそも電子レンジなんてなかったし。
私と6学年違いの妹、二人を小学生から私学に通わせていたため、母は幼稚園を含めると20年の間、毎日毎日弁当を作っていました。 今になって思い返すと、母は裁縫や掃除洗濯は得意で好きだったようですが、料理は得意でもなく好きでもなかったのだろうなと推察できます。 中学生のころ、休日の気まぐれで、当時は珍しかった水煮のトマト缶でトマトソースを作り自家製トマトパスタを振舞った私に、来客のたびパスタを作るように言ってきたものです。多分、自分が料理するのが面倒だったんでしょう。 大した手間でもないので私は言われるままにホイホイ作っていましたが、あの頃私のパスタを食べさせられた方たちは、正直、どう思っていたのでしょうか。当時、パスタなんて言葉も一般的ではなかったと思います。本当に、おいしかったのでしょうか、今さらながらに不安です。
それでも母は毎日弁当を作ってくれていたのですから、有難いことです。 その分、朝ごはんは手抜きで、おかずなしのお粥なんていうのもしょっちゅうだったなぁ。部活をやっていた私はそれでは足りなくて、学校に行く前にパン屋で何かしら買って昼までつないでいましたっけ。 家事のなかで唯一、得意とまでは言えないまでも好きなのが料理という私が、弁当作りに不満を言ってはバチがあたります。 保育園から公立小学校のリュウに弁当が必要になったのは、まだ10年ぐらい前のことですから、私の弁当作りのキャリアは母にはまだ遠く及びません。
さて我が家はリュウのお握り&ライスバーガ弁当ブームが去り、またパン弁当ブームがやってきました。 学祭が終わり、昨日の練習試合で部活も終わったので、朝の5時起きで弁当作りとか、三食分の弁当作りとか、そういう異常事態が日常化していた日々も、ようやく収束。
今日はリュウも昼頃起きてくるという久しぶりの休日感。 起き抜けから「チーズたっぷりの、とにかくチーズってパスタ」というリクエストでピザ用チーズを豆乳で溶いて(フォンデュみたいに)白ワインを加えて、そこにさらにパルミジャーノレッジャーノとブルーチーズを加えて、パスタを絡めて、出来上がりという“チーズばっかりパスタ”を作りました。酢漬けのキュウリとレタスでグリーンサラダ。 バイト前の早夕飯は、トン汁に、キムチの残りに鶏肉を絡めて焼いた鶏キムチ、切干大根、白菜の酢漬け。
さて、夜食はどうしましょうね。
2012年12月02日(日)
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