大昔に読んだので、うろ覚えですが、菊池寛の小説で、
被告に温情主義的的な、ヒューマニスティックな判決を
する事で知られた裁判官が、自分自身がある事件に巻き込まれた後、
掌を返して冷淡になる、という作品を読んだ事があります。
主人公のヒューマニズムが所詮は偽善に過ぎなかった事が、
はしなくも暴露されています。
作者がどういう寓意をこめたのかよくわかりませんが、
少なくともここでは作者の、
人間のエゴイズムというものに対する鋭敏な感覚を私は感じました。
さて、先週末大阪の小学校で起きた児童殺傷事件について、
以来、連日のように事件報道が続いています。
と言っても既に起こってしまった事件はどうしようもありませんから、
犯人の動機やら事件の背景ついて、あれこれ述べられているに過ぎません。
従って見るほうも、惨劇そのものの衝撃とはもはや別の次元の
興味本位に移っています。
私自身も、刑法改正などの今後の問題には関心がありますが、
事件そのものにはあまり興味がありません。
確かに一報を聞いた時には驚きましたが、
しかしそれ以上でも以下でもありません。
近年、日本も欧米並みに物騒な世の中になったものだ、
と言う一般的な恐怖はありますが、
とりあえず事件そのものは私とは関係のない出来事です。
ひとに聞くと、例えば同じ子を持つ親として他人事ではない、と言ったりしま
す。
でも私には子供はおりませんので、その理屈に従えば他人事です。
また、同じ親として云々という人にしろ、
それは裏を返せば実はわが身に起こった出来事ではない幸せでさえあります。
だから結局は他人事です。
しかし、人間として許せない、怒りと悲しみを禁じえないと言う
ヒューマニスティックな立場もあり得るでしょう。それは認めます。
ただ、そう思っている人も、
まさにそのように思うときだけ怒りと悲しみを感じるのであって、
もしかしたら1時間後にはバラエティ番組を見てバカ笑いしているかもしれません。
でも、子供を惨殺された当事者である親にとってみれば、
勿論そんな事はあり得ないです。
これから生涯、常に怒りと悲しみを抱えていかねばなりません。
すると、アカの他人がその時だけ感じる義憤って一体何でしょう。
むしろそういう人は、別にどの事件であろうが、誰が殺されようが
同じように怒りと悲しみを感じたりする義憤屋に過ぎません。
しかし当事者にとってはそんなものではないです。
怒りや悲しみは、他とは取り替え不能なものです。
私たちはそれを共有する事など無論できません。
そうであるならば、つまり所詮は他人事の世界に過ぎないのです。
ひとは結局、自分自身の立場にしか立てないのです。