先日の『恋愛の超克』読後感が尻切れになってましたので、
取り合えずケリをつけておきます。
さて、著者である小谷野敦氏によれば、
今日、売春者の立場に立てるのは、売春者自身か、
さもなければ「愛のないセックス」を実践し
自分の娘に「売春は立派な職業だ」と言える者のみなのだ、
という事でした。
これは言いかえると、売春とは愛のないセックスをする事であり、
従って、性と人格の一致の原則が人間社会全体において解体
するのでなければ売春者蔑視は根絶できない、という事になります。
しかるにフェミニストは…というわけで、
近代の恋愛イデオロギーから自由になれないフェミニズムの立場と
売春擁護が相容れない矛盾点を著者は指摘しています。
著者の主眼はあくまで近代の恋愛教からの脱却・超克であり、
売春擁護論への批判もその観点からなされています。
でもそのせいか、売春そのものの評価に関しては
いささか混乱があるように感じます。
つまり売春擁護論の否定は、直ちに売春そのものの否定には
繋がらないのではないか、と言う事です。
尤も、この事は逆も言えます。
売春否定の根拠が曖昧である事は、
必ずしも容認や肯定の論理には結びつきません。
単にどちらとも決定不能であるというだけです。
また、混乱のもとは、セックスワークそのものと
現実にかくあるところの売春や風俗のあり方の問題とが
よく区別されていないからでしょう。
私個人の意見として述べれば、
論理的には性労働そのものの成立の可能性自体は否定できないと思います。
著者は、性=人格の解体が社会全般にわたって進めば
売春者そのものをなくす事ができる、と述べています。
性と人格の一致が解消し、
もてない男(女)に請われれば1回くらいのセックスはさせることが
スティグマにはならない世界が到来すれば、
売(買)春需要はなくなる、という事のようです。
しかし、それでもなおセックスワークそのものが
存在し得る可能性は否定できません。
それが上野千鶴子氏の言うようにマッサージ並みの料金に
なるかどうかはわからないけど
セックスに過剰な意味がなくなれば、単なる遊びとしては残存し得る理屈です。
その程度の遊興の場としてはあり得るでしょう。
ただ、それと現にかくあるところの性風俗のあり方を肯定する事はまた別問題です。
男性社会、家父長的資本制の中にあって、女性のカラダが「財」として消費される
構造が現実にある以上、それは容認し難いものがあります。
例えば、営業の接待として風俗を利用するという、
オトコの私から見ても唾棄すべき慣習があります。
これなどは職場労働の現場において女性が意志決定の場から排除され、
その反面、まさに家父長的資本制の論理によって「財」として女性のカラダのみが
提供されるという悪しき構造そのものです。
こんなもの認める必要全くありません。即刻にも撲滅すべきでしょう。
或いは「人妻」「主婦」「女子高生」を売り物にする風俗など、
それ自体が「財」として売り物になっている現状を容認した上でのものであり、
認める謂れは全くないです。
フェミニズムは絵空事のあるべきセックスワークを擁護する前に、
こうした悪しき現状は厳しく糾弾し続けるべきでしょう。
また、著者が囚われているような恋愛イデオロギーだけが
必ずしも売春否定の根拠なのではありません。
売春への拒否感情とは、
必ずしもそれが性=人格に反する愛のない性行為であるからではなく、
多分、性が金銭を媒介として売買されるというそのものに根ざしています。
性を商品化してはならないという倫理は、
何も別に性と人格の一致によって保証されているものではありません。
性に限らず、我々がそれを商品化する事を忌避するような領域は
ほかにも存在しています。
例えば臓器売買は、まさに「売買」である事によって拒否されるのであって、
身体と人格との一致原則によって臓器移植が否定されるわけではないでしょう。
こうした観点への考慮も必要であるように思われます。