Memorandum
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2001年06月28日(木) 「世間」という道徳

先日の大阪の児童殺傷事件の犯人の父親が
マスコミに謝罪文を書かされていました。
もともとこの父親は犯人である息子を批判するなど、
他人事のような態度が非難されていましたが、
それにしても何故当事者でもない親のところに
押し掛けて行って責任を追及するのか、わけがわかりません。
このような凶悪事件が起こるたびにいつも、
必ず親の責任が云々され、親がマスコミに引っ張り出されて
謝罪させられるという事が起こります。
特に少年事件の場合は尚更ですが、
この事件のようにいい年をした大人の犯人の場合でさえ、
なぜか親の責任が問われます。
なるほど、こういう犯罪を起こすような人間が育った原因の一端は
確かに親にあるでしょう。
しかしどういう育て方をしたらこういう犯罪を起こすという
必然性などはありません。
どんな育てられ方をしたって、する奴はするし、しない奴はしない。
まして犯罪自体はその犯人自身に責任のある事であって、
別に親に責任はありません。
親が共犯だったわけじゃないし、
犯罪を知っていながら知らぬ顔を決めこんでいたわけでもない。
独立した個人の行為をいちいち親に責任を問い
謝罪を要求するというのは、どういう倫理構造なんでしょう。

たまたま今日、幼女連続誘拐殺人事件の判決がありました。
この犯人の家族は離散し、そして親が確か自殺しているはずです。
或いはその昔、連合赤軍事件の場合にも、
犯人たちの親の一人が自殺したと記憶しています。
つまりよってたかって親の責任を追及した結果、
自殺にまで追い詰めたのです。
これはマスコミ、或いはそれを煽った世間の責任ですが、
その責任は一体誰がとるんでしょう。勿論誰もとりません。
というよりむしろ自殺に追い込んでも当然と
思っているかもしれません。
責任や謝罪を追及するのは結局そういう事です。
私は凶悪事件そのものは当然異常だと思いますし、
そんな事は分かり切った話です。
でも不思議なのは、その犯人の家族を
自殺にまで追い込むような世間の構造については
何とも思われていないらしい事です。
私はその事の方がある意味よっぽど異常に思えます。

かつて連合赤軍事件だか何かの過激派事件のときに、
思想家の吉本隆明が「戦争が露出してきた」と批判していました。
事件そのもののことではありません。
犯人の親を引っ張り出して、その親に謝罪させるという構造
のことを指して言っていたんだと記憶しています。
戦時中、親は「公」のために「私」を殺し、
出生する息子に、お国のために立派に死んでこい、と言わされていました。
今日、マスコミに引っ張り出されて
息子がこのような犯罪を起して申し訳ない、極刑にして下さい、
と言わされるのと同じ構造だというのです。
吉本は、「公」より「私」が大切だというのが戦前の教訓、
そして戦後の課題だったはずなのに、
結局、戦中と同じ構造が平時のもとで繰り返されている、
それは平時における戦争の構造だと言うのです。
ここで言う「公」とは、「世間」の事です。
「世間」という得体の知れないものがあたかも規範であるかのように
振るまい、その元に人々が服従させられるのは、
未だに何ら変わっていないようです。


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