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ラヂオスターの悲劇
トマーシ
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2003年10月12日(日)
声 ボブ・デュラン

 そんな具合に、思い違いでなければ、ボブ・デュランは長いあいだ僕にとって最良の友達だった。彼のフォークソング以外の音楽は全て余分なもののように思えた。ジャン・コクトーの小説に出てくる勝気な女の子みたいだといえば、それはピントがずれすぎだろうか?ボブ・ディランに関してトルーマン・カポーティは油断ならないペテン師のようだと評している。もちろんそれはカポーティならではのコメントなのだけれど。でも誰もが一度は通る独特の憑き物があるとしたら、僕の場合それは間違いなくボブ・デュランの声だった。雨降りを窓辺で見つめる少年みたいな声、そんな風に彼の声を評した人もいたが、それはもっとあとの時代のこと。詩的な気持ちが透明な溜め息と共に生まれるとしたら、ボブ・デュランの声は思いっきりメランコリーだと思う。この人と同じくらいメランコリーな声の持ち主はハンク・ウィリアムスくらいしか思い浮かばない。高校生の僕はそのメランコリーにすっかりやられてしまった。それはもちろん克服されなければいけないことなのだけれど、それをどんな風に克服したのかよく分からない。だいたい克服という言葉じたい嫌いなのだから、いいように忘れてしまうのだ。うまく言葉に表すことが出来ない。それを共感するというより、それを理解する立場からでは何も分からなかったりするのだ。今ではそれらがアリスからの引用であったり、ディケンスからの引用であったりと、色々なものが見えてきたりする。でもだからってなんだろう?もはや同じ気持ちで接することが出来ないのだから。いや?警戒しているわけではないし、特別に失望したわけでもない。ただ同じ気持ちで接することが出来ないだけだ。時々頭をもたげるフェアでありたいという気持ちが結局つまらなくしてしまう。より正確であることにこれほど複雑な気持ちになるミュージシャンはいない。