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ラヂオスターの悲劇
トマーシ
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2003年10月22日(水)
半分の月 〜ジャニスと目一杯テンパったブギー〜

「逃げよう!」
りんごビッチは抱き締めた、飼っている月に向かってそう言った。

 月は彼女の飼っている猫の目の中にいたから。黒い猫。黒い猫にはまじないが隠されている。既に扉を叩く音がした。彼女の扉、りんごビッチの看板が掛かった、りんごビッチの扉。

 日は高く、月は彼女の世界の裏側から彼女を牽引する。それでりんごビッチは母親のラ・スペインの名前を探し当てた。ラ・スペインは往年の映画スター りんごビッチの部屋には「高い窓」というサスペンスドラマに出演したラ・スペインのポスターが貼ってあった。ラ・スペインは白い背中を見せて、振り返っている。前々から気付いていたのだけれど、りんごビッチははじめて「ママ!」と呼びかける。
 そのポスターに駆け寄り、ほんとは抱き締めたかったけれど、それを引き剥がした。小さな小さな彼女のボストンバッグに入れる。ピンク色で、薄い水玉がすかしてあるバッグ。あと化粧道具をバラバラとぶちまけた。

 ピンク色はまだ他にもあった。ベッドに眠るピンク色の男。少し上気したピンク色の頬はまだ覚めやらない。薄く唇を開き、少し前に眠りに落ちたか、それとも今、眠りに付いたばかりという具合に目を瞑っている。ベッドシーツからは裸の鎖骨が見える。まるでダビデ像みたいだ。でもそこには彼女の持っていかなければいけないものは何も見いだせなかった。りんごビッチは知らず知らず手鏡を握りしめている。そして、何故?という風に頭を捻って、それもバッグの中にほりこむ。

 あぁ、彼女の頭の中は今、ラ・スペインのことで一杯。ラ・スペインこそはずっと知ることのなかった自分の母親なのだ。今月の映画時報にはラ・スペインがパリに逗留していることが載っていた。パリに行けば、ママに逢える。

「ビーティ いい子だからここをあけておくれよ。」

 扉の向こうからはりんごビッチを呼ぶ声。間抜けの金物屋、ジャラジャラとスプーンを背広に隠して、ワンセット3万円のえせ銀器を町で売り歩く。誰も見向きもしない。いいカモが居なければ・・・・彼はスッと街角から姿をくらます。そして、りんごビッチに誰が見ても見込みのない自分の仕事の展望を話して聞かせたものだった。