ヨシナシゴト

2001年09月09日(日) 我慢

 昨日教習所にて学科の授業を受けたのですがその際に教官が今の日本と我慢の足りない者たちと昔の状況などを経験談を踏まえて語ってくださいました。
 それはもう含蓄のあるお話でしてその上になかなか今日日の大人が言う事の無い辛口の意見を堂々と言ってくださいまして非常に為になりました。次回は是非交通ルールを教えていただきたいものです。

 さてさて、「我慢」ってなんでしょうね。
 例えに、喫煙可能な場所での愛煙家と嫌煙家のやりとりをあげてみます。愛煙家は法律で許されているものを許されている場所で吸って何が悪いと言い、嫌煙家は喫煙場所だろうと副流煙などによる害があるから人が近くに居たら吸うなと言う。そしてお互いに我慢しろと言い張るのです。
 これはどちらの言い分も通る気がします。もっとも私は嫌煙家なのでディベートするとしたら最後まで食い下がりますがそんな事はどうでもいいし私如きが食い下がった所で大したことは無いのでおいておきます。で、今の人は我慢が足りないとよく言いますが、ある問題に関しては老若男女問わずある同じ一線の上で我慢が足りないと言い張りあうわけです。マトリックス図みたいに考えるとわかりやすいかもしれませんが、どうにも、我慢と言うものの正体がつかみかねます。
 さて、前述の煙草問題のやり取りを解決する方法には一方の我慢以外の方法があります。それは妥協、もしくは折衷案と呼ばれるものです。しかし妥協の裏返しには我慢があり、折衷すると言う事は満足、及び完全でないという事で、結局は我慢と重なります。ここでまたわからなくなります。耐え忍ぶ事を美徳とする文化が既に無い日本において、結局は我慢という物はするだけ損なものなのでしょうか。もちろんそんな事は無いわけでして我慢しないから犯罪なり何なりが増えているわけです。ですが、我慢という言葉の裏にある妥協などの言葉から意味をすくっていくと、そこからはいい印象が意味として読み取れないのです。
 もちろん私は我慢の「意味するところ」は本能的に理解していますしだいぶ前にここで書いた暗黙知と形式知というものの暗黙知にはなっていると思います。
 しかしこれらから我慢と言うものの意味を形式知にする方法がわからないのです。

 それ以前に今日の日記で私が何を言っているのかがわからないのです。

 いつもいつもわけがわからない文章ですが今日は特に酷くてすみませんごめんなさい平謝りです申し訳無い。私には我慢の前に精進が必要ですな。
 でも精進には我慢が必要なわけでああもうわけがわかりません。


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