ヨシナシゴト

2001年09月28日(金) できるということ

 何かが「できる」といいますよね。例えば、絵が描ける、小説が書ける、英語を話せる、サッカーができる……色々あります。
 私だって、時たま思い出したように小説と定義される分類の文章を書いてます。しかし書けると言う度胸はありません。胸を張って「できる」というにはあまりにも稚拙だからです。なんだかこの日記で以前書いた「上手いということ」と同じような内容なのですが、要するに、0と1で区切れないこれらの言葉はどの辺りで線引きしたらいいのかと言う事です。

 例として、私のピアノモドキを出しましょうか。ようやくエリーゼのためにを超えてまして次にとりかかったK.545の第一楽章をどうにかこうにか弾けるか弾けないかという様な状況でして要するに下手なわけですがそれでも鍵盤に触った事が無い人がそうそうできるものでない程度には達しております。これはできると言えるのでしょうか。また、まだまだできないのでしょうか。
 そして、これらの、私がいう所の「エリーゼのためにやK.545を一応弾ける」というのはすなわち「楽譜に指示された音符の順序・長さの通りに指が動く」事を示します。忙しい所ではそれほど綺麗には強弱はつけられませんし何よりよほど上手くいかない限りミスタッチもしますし楽章の途切れ部分では手が止まることもしばしばあります。そんな出来でも普通の素人さんを騙す程度には聞こえるらしいです。
 しかし、困った事に物凄くピアノが上手い様な人の中に「私はエリーゼのためになんてとてもじゃないが弾けない」と言う方がいらっしゃる様なのです。
 そういう方にしてみると、微妙なキータッチ、感情の起伏、延いてはその曲に込められたベートーベンからのメッセージまでもを自分のものにしなければ、「弾ける」とはいえないらしいのです。
 おっしゃる事はわかりますがそれでは「できる」という単語はいらない単語となってしまうわけでどこかに線引きが必要となります。しかし、この国の法律はがんじがらめに穴だらけで奇妙なものまでたくさん取り揃えているというのに、どこから「できる」といえるかなどと言う事は載っておりません。(資格というものがありますが、あれはテストの合格証明であってやっぱり出来るという事の線引きにはなりません。近いですが)

 結局この問題は全人類にアンケートでもしない限り結論はでないのですがこれに関しましてまた問題となることがあります。それは、結論が出ないことをいいことに、できなくとも「できる」と公言してはばからない人がいて、その人が基準となり間違った「できる」人がたくさん世の中に出現することなのです。日本で言えば、絵(特にマンガ絵)、歌(特にポップス)等に顕著に見られる例ではないでしょうか。

 しかしながら結局のところ私にできるものなどお金と時間の浪費くらいなわけでしてこんな議論は無用だという辺りが真理なのかもしれません。駄目人間です。


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