二度目の恋。
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2005年10月31日(月) |
関係のない思い出話。 |
昨日、友達と梅田で会いまして。 ホテルのカフェでバカ高いケーキセットを食べながらお喋りしまして。そこで一冊の本を渡されました。友達のお父さまの書かれた本。夏にそういう本が出されたことは知っていたのですが、私のところに直接届くほどに近しい関係ではなく、けれど彼女は関係者からダブってもらっちゃったので一冊あげるわと。
受け取りながら、「で、中身読んだ?」と訊ねると、「パラパラ見ただけ。読まれへん。自分出てくるもん」「へええ、それは恥ずかしいな」「他人ごと違うで。あんたも出てくるで」「え」「○○ちゃんとかも出てるで」「ええええっ」「赤くならんといてよー」。……てな会話がありまして、まあそんな内輪の会話ここに書いたってしょうがないんですが。つまるところ、学生時代に亡くなった友達のお父さまが息子の学生時代の友人達とのエピソードを本にまとめられまして、それに自分も彼女も出てくるという話。亡くなった友達と言っても一人ではなく。大学一回生で出会った仲間十数名のうち、一年目の冬に一人が突然他界し、四回生の秋に二人目が闘病死し、卒業後三年目の夏に三人目が急死してまして、それぞれ別の病魔に襲われ夭逝した三人と、その三人を見送った仲間達のことを二人目の子のお父さまが書かれたわけです。
懐かしかった。
自宅に帰ってから一気に読みまして。確かに友達が言ってたみたいにがっちり自分が出てくるので多少の照れはあるのですが、それを通り越えた懐かしさやら何やらで、昨日から心が震えっぱなし。あの春にいわゆる難関大学と言われるところに合格して全国から集まってきた健康で若かった私たちの仲間は、全員揃って卒業することはなく、一人欠け、二人欠け、卒業後に三人目まで欠けて、「四人目は誰?」という言葉がシャレにもならない二十代を過ごし、けれど四人目になる者はいなくて、今はその後の人生を別々に歩いています。別々だけれどどこかでつながっていて、こうして本が手元に届いたりします。
本のなかで「あの三人がいなかったらもう仲間はバラバラになっていたかもしれない」との科白があって。それはグループの中心的存在である男の子の言葉なのですが、確かにそれはそうで、教養部で集まった仲間が専攻学科ごとに分かれ、卒業後は進路も分かれ、それでも連絡を取り合ったのは、細切れにめぐってくる法事の席があったからだったりして、ある人の一周忌で久しぶりに集合して「こないだあったのは○○君の墓参りのときだったね」なんて話したりしました。それが平和な時代の平凡な二十代の仲間として特殊なことなのか、さして特別ではないことなのか、他の青春を送ったことがないから判らないのですが、私の青春は確かに友人達の死ともにあったのです。
その本はたぶん一般には流通していないと思います。書店扱いのある自費出版という感じかな。他にも評論とかそういう本を出されてる方で、素人の作品ではないのですが、ならプロの小説として一般に通用するかというと、そういうものでもないと思う。作品や文章の質という問題ではなくて、家族への配慮とかそういうのがね。ひとを傷つけるような描写はほとんどなく、綺麗な思い出だけが存在する世界なので。私たち仲間十数名はみんな美男美女ですし。人を惹きつけずにおかない大きな黒い瞳の女性とか自分のことを書かれていると「誰やねん、その証言したんは」と本にツッコミ入れちゃったりします。だってそのお父さまと実際会ったの一度くらいだよ私。美化して頂いてありがとうございます。
ツッコミ入れちゃうくらいには、思い出なのです、すでに。懐かしくても涙はないし。ケーキ食べながら「だーもー、恥ずかしいなー」「困るよなああ」と笑って話せるくらいの思い出なのです。
友達を見送ったときにもリアルタイムで私たちは追悼文集を出したり、ご家族の出された追悼本に寄稿したりしてましたが、それらはもう生々しくて痛々しくて、とても懐かしさなんか感じられるものではなく、完成度も低い。そりゃそうです。大学二回生が友達の死を受け入れられずにあがきもがきながら必死にまとめた本だし、印刷会社は当時同人やってた私が使ってた会社だし。
だけど、同じ思い出を、文筆家である方が十何年の月日の後にある程度の距離を持って一冊の本にまとめられると。そこにはあまりにも綺麗に自分の青春が残っていて、嬉しくて、懐かしくて、幸せだった。赤いコカ・コーラのベンチや、ギターの音色、いつも集まった場所や、遊びに行った男の子たちの汚い下宿。絵に描いたような綺麗な青春がそこにあって、書いてもらえたことに心から感謝しました。……いや一応本屋売りもしてる本に無断で実名出されてんのはどうなんかなと一瞬思ったのも事実ではありますが。それもいいよ、って気になった。だって思い出のなかの私たちがあまりに綺麗なので。去っていった友達とともに、あまりに純粋に青春を謳歌しているので。
描かれていることは、決して真実ではないんですけれどね。それがすべてではない。半分くらいしか書かれてない。だって、この本には、ひとつだけ、まったく触れられてないことがあるんですよ。何一つ入っていない要素が。それが、恋愛。……だって二十歳前後の若者十数人ですよ。男女混合チームですよ。そりゃそれがなきゃ話にならないわけで、生と死に真正面から向き合って、人はなぜ死ぬのか、なぜ生き残ってしまうのか、真剣に語り合い、毎日泣きながらいなくなった子のために白い花を買いにいき、それでもやることはやってたんですよ。くっついたり離れたり振ったり振られたりしてたの。当事者である私たちは、そこに出てくる名前の一つ一つにリアルにそういうことを思い出せる。著者であるお父さまがそこに触れなかったのは、故意にでもあるだろうけれど、半分以上はたぶんご存知ないからだとは思うんです。だって誰もそこまでご家族に話さないし。夭逝した子たちの恋人のことすら出てこない。
「生徒諸君!」ってマンガがあります。中学時代に出会った仲間が、それこそ仲間の生と死を乗り越えて成長していく、ってマンガ。それの正編(今続編やってるんで)のラスト近くに、仲間の一人のお兄さんが仲間達の生と死と友情を小説にまとめて、それで賞をとる、ってエピソードがあるんです。仲間たちがそれぞれの思いを胸に、その小説を読むシーンもあって。なんか、それを思い出しました。一歩外にいて書いてくれるひとがいて良かったな、それだけの筆力のある方がいてよかったな、と。
文章の力について改めて考えました。身内が必死で綴った追悼文にはそれにしかない何かがあったけれど、やはり上手い文章には上手い文章にしかない力があるわけで、読みながらこれだけリアルにあのころを思い出せたのは、書き手が上手いからであって。私たちが悲しんだことや、著者の悲痛な思いなどは省略され、ただ死んだ子たちがどんな子であったか、生き残った私たちとどんな日々を送っていたか、仲間たちがどんなつながりだったか、葬儀の日はどんな天気だったか、当時の仲間達の風貌はどんなだったか、キャンパスはどんな風景だったか、そしてその後の仲間達がどう過ごしているか、淡々と書かれていて、本人を知っている私たちにも(多少の美化はあれど)確かにあの子はそういう子だとうなずける人物描写もあって。書いてない恋愛のことまでが思い出されてくる。
今はただ懐かしいのです。
私たちはくっついたり離れたりした結果、「生徒諸君!」みたいに仲間内や身内で結婚したりはせず、それぞれに別のひとを見つけ、離ればなれに生きているので、どこかで全員集まったりすることはもうないんだと思うのだけれど。もしも集まるときがあったなら、そこにはすでに時間を止めた三人も必ずいます。なんだかね。もしかして、すごくおかしな青春なのかもしれない。どうなんだろう。判らないのだけれど。さすがに三人目が死んじゃったときにはなんじゃこりゃと思ったんですけどね。なんでなんだろう。その大学の学部同期生で夭逝したのって、三人だけです。なのにそれが一つのグループから出て、しかも別々の病魔って。結婚式より葬式出るほうが慣れてましたからね。三人目の死を告げる電話がかかってきたときに、そのあとのことが予想できましたから。「ええとこういうときの準備といえば……」って。三年周期での悲劇が続き、恐れていた四回めの三年目が無事に過ぎたころ、私たちは年相応に結婚式で集まるようになって、そのあたりから本当に別々の場所で生きるようになったのだけれど。それでも、あの日々は忘れない。生きることも死ぬことも本当に判らない。どうしようもない。あのときから私はすべてを信じてはいません。だけど立ち直って笑ってはいる。
懐かしかった。 本当に。
以上。 ほかに書く場所がないからここに書いてしまいました。
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