| 2004年03月21日(日) |
砂の器 Symphony 10 最終楽章前編 |
砂の器 10話
なんなのだろう、この感情は。今私が風邪をひいて具合いが悪いということもあってなのか 窓の外に冷たい雨が降っているからなのか。 心の中にモヤモヤしたようなくるしいような寝つきの悪い夜のような。
10話で和賀が抱える宿命の謎が解かれる・・・でもまだすべてではなかった。 「村八分」びっくりした。そうきたとは。久しぶりに聞いた言葉だった。 宿命の謎が少し解かれた時衝撃が少なかった人は多かっただろう。 ドラマとしては「えっ、そんなことが!」というくらいのインパクトがあった方が華がある。しかし、この宿命はナイフでひとつきされたような痛みではなく 紙で指を切った時のような痛みがする。
普段の日常の中に起こる出来事はとてもささいなことで暮らしている世界は狭いものだ。 その“世界”の中で“はずれた”時孤独感と悲壮感に襲われてやがてそれは憎悪へと変わる。 この“世界”を壊す以外に道はなくなるのだ。
だからと言って人を殺めることが正しいなどと思ってはいない。 けれど自分が本浦千代吉だったら・・と思った時「自分は鬼にはならない」と 言いきれるだろうか。 自分があの村人だったら本浦家を助けることなどできただろうか。
それにしてもセリフの少ないドラマだ。 最後の方は親子の放浪シーンが永遠と続く。製作側としては挑戦的なことだ。 視聴者は「まだなのか、まだ続くのか・・・」と思わされる。 親子の放浪もそうなのだろう。 今日も明日もこの旅は続くのだろうか・・・・終わりが来ることを知っていても。
日本の美しい景色に驚かさせる。こんなにも素晴らしい国に住んでいるのにもかかわらず まったく知らないで生きてきたのか、と。
秀夫とにって父との放浪の旅は辛くても楽しいものだったようだ。 ピアニカとの出会いは意外ではあったけれどたった一人頼れる父との旅は 秀夫にとって忘れることはできない旅であっただろう。
その旅が終わりをつげた時、親と子が引き離された時秀夫には新しい苦しみが生まれたのだろう。
まぁ、ここまで考えたのは私が中居ファンだったからかもしれない。 万人にうけるドラマではないだろう。 でも万人が考えなくてはいけない‘宿命’と思う。
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