| 2003年12月04日(木) |
よく考えると《イってみよう ヤってみよう》って順序が逆なんじゃないかなぁ |
言い訳に《もう歳だから》を口癖にするみなさん、 こんにちは。
> 区別 最近、学校でHNで呼ばれることがあります。 いや、心友しかそうは呼ばないので、それは気になりません。 オフ会にも行くような人間なので、HNで呼ばれることに抵抗は覚えません。 問題は、電脳上の俺と現実での俺を混同されてしまうことです。 どちらの俺も人格は変わりませんが、相手によっては話題を変えてます。 違いがある以上、それぞれの同一性を保つために名前を区別しています。 現時点で本名とあだ名とHNとメッセでの名前と称号と5つを俺は使っていますが、 その全てを意識的に覚えているのは俺だけでしょうし、それはそれで十二分です。 人格が変わらない以上、相手によっては話題を変えるという姿勢も残ります。 分かりますか? 名前なんて、外見以上に俺の《うわべ》しか表さないのです。 例えメッセでの名前がえちぃくても、それはどこまで行っても俺の《うわべ》であり、 その奥にある俺が俺なりに深く考えた表層の発露の一部でしかないのですよ。 ナニを言いたいかと言うと、そんな《表層》だけを見て勝手に人間性を想像するなってコトです。 同じ《表層》を表す物でも、《名前》なんて《外見》以上に薄っぺらなものですよ。 目に見えないものを見ようとしないと言うのであれば、俺には関わらない方がイイですよ。 俺は、俺の見たいものを見ます。
俺が在って、初めてHNなどには意味があるのです。 この順序が逆転する可能性があるのは、唯一《本名》だけではないでしょうか。
メッセンジャーでは名前を変えても個人を特定しやすいです。 故に、そのときの状況を名前として使う人もたくさんいますね。 《死にそう》とか《データが吹っ飛んだ》とか《しあわせ》とか《フられた》とか。 それらと比べた上で、俺のメッセでの名前の普通性を激しく訴えます。 俺は《触れて撫ぜて抱いてキスでイかせておくれ《鬼畜大王》もぐる永遠の15歳》です。 ‥‥‥‥やりすぎだとは思いますけどね。(てへ☆
《うわべ》に踊らされるな、《本質》を見抜け。 どうせ個人が互いを理解し合うコトなんて究極的に無理に違いない。 何者にとっても、限界はある。 しかし例え結果が同じでも、それを受け入れるかそれに挑戦するかは選べるはず。 そしてそれが限界であると知りつつもそれを良しとしない人間の魂が、 過ちを犯しつつも今日の文明を築き上げてきたという事実の歴史を省みろ。
> 今週の疑獄 注文した女体盛りの女体ですが、おなかがグーグー鳴ってうるさいんです。
> 題名 やっぱりどう考えても逆だって!!
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