2005年06月30日(木) |
買えるものはMaster Cardで・・・・ |
キーワードは《Priceless》のチャボです、どうも。 みなさん、こんばんは。
今日の講義《認知心理》にて、与えられた問題。 曰く、《この取引は、損か得か?》と。 事例は、《白馬を$60で買い、これを$70で売った。次いで黒馬を$80で買って、これを$90で売った》。
フツーに考えれば、$20の得になるわけだ。 でも、白馬と黒馬との差は、もちろんあるわけでさ。 講義の終了において、感想を書いて、この問題に対する俺の回答を提出したのよ。
回答: $20の得
感想: 白馬の値段: $60 毛並みの手入れ: $80 《白馬の王子様》になれた気分: Priceless
書き忘れたのは、《お金で買えない価値がある》かなぁ‥‥。
> 家に帰るまでがBBQです 講義後、打ち合わせをしているうちに、心友Yoとうっちーを連れて川崎まで出向くコトに。 でも、目的のものを見つけられずに――
多摩川沿いにて男3人でバーベキューしてきましたv
何故か心友うっちーの車に積んである七輪と炭を使って、炭火バーベキューv 近くのデパ地下で肉とかビールとか買って、 東京都と神奈川県を分けるように流れる多摩川へ!!
川原で、男3人で、バーベキューv
‥‥‥‥《侘しい》とか言うなっv
昼間に、学校で会ったときにCD-RにFEPソフトを渡した、心友のんこからメール着信。 2〜3度のメールのやりとり後、酔いに任せて電話v (迅しくマテ 七輪で炭火でのバーベキューについて、実況中継v 途中で、同行していた心友Yoに電話を渡して、感動の度合いを伝えさせたりv 電話を返してもらってから、のんこからのコメントは――
《イ イ な ぁ 〜》
ごめんな、のんこ‥‥。 いつか、必ず誘うからさ‥‥。 そうねぇ‥‥アメリカから帰ってきたときかなv (ウフッ
まぁ‥‥詳しくは、また書くわ。 その理由は、推して知るべし。 書けない事情があるか、書きたくないか、他に書きたいネタがあるかの3択ですっ。
> 後悔ってのは《する》もんじゃない、俺が《させる》もんなんだよ どこの誰から聞いたのか、はたまた自分で見つけたのか‥‥? noahさんの《カゲロウニッキ》6月28日付。
じ つ は エ ン ピ ツ の 逆 M y は 、毎 日 、確 認 し て ま す v
まぁ、そんなのはどーでもよくてさ。 あたりさわりのないこと、楽しいこと、嬉しいこと、美しいこと―― それだけを日記に書けたならば、それはそれでいいことだと思う。 読み手が、その日記を読んで、気持ちを沈めることは無いからさ。 でも、それだけで済まないからこそ、いろんな人が困り、悩み、思考する。 Web日記を書くこと―― これは決して読み手のためだけじゃない、書き手である《あなた》のためでもあると思う。 《逆My》を見て、初めてその日記の存在を知った俺でしかないけれど、 書き手としての自由を自負する以上、同じ書き手としてこれを否定するわけにいかない。
‥‥ナニより、俺自身がこのWeb日記を《掃き溜め》と位置付けている以上、 どんな個人が書いたものであっても、その人のWeb日記を俺は否定はしない。 その人と同じく《書き手》の1人として、俺はこれを否定できないんだ‥‥。
‥‥で、だ。 父だとか母だとか弟だとか、そんなに意識するもんかね‥‥? 血のつながりなんて、1,000,000,000世代くらいさかのぼれば、 ほとんど総ての命が《身内》に含まれるわけでさ。 ンな、たかが2〜3世代くらいの間での出来事なんか、ちっぽけなもんじゃね? これを踏まえた上で、より重要だと思う対象のために、俺は日記を書くと決めているわ。
例え誰であっても、離婚なんかするべきじゃない、と俺は思ってる。 それは、子どものためだけじゃなくて、結婚した本人同士を肯定するためでもある。 《子どものため》なんて言ったところで、 子どもらが成人してしまえば、親の責任なんて半分以上は無視されるもんな。 まぁ‥‥既に離婚してしまった以上、これはもはやどーでもいいことだけど。
俺の身上にては起こりかけた事態で、親の《離婚》を決して他人事だとは思えない。 実際には《離婚》まで行かなかったのは幸運だけれど、 だからと言ってこれを自慢するつもりはまったく無くて。 個人として――家族としても一流ならば、そういう危機すらも回避しているはずだからな。 まぁ、それはともかく。
きっかけについての分析なんて、今となってはもはやナンセンスだろ。 過去の詮索は、無意味でしかない。 無価値‥‥とまでは言わないけれど。 ただ、親を訪れる際にあって、父だけを尋ねたということには疑問しか覚えられない。 まぁ、母の所在地が、今ある生活の環境から遠く離れた場所なのだろと推測するけど。 だとしても、片方に偏るのは、明らかにおかしい。
父と母と、子どもに授けたものについての差異はあれど、 《親》であることにおける一切の差異は無い。
誕生日ってのは、自分を産んでくれたことを親に感謝する日だぜっ。 その感謝の対象として、父も母も関係ない。 ただ《親である》という事実だけが、意味を持つだろ。 ならば、父も母も区別せずに親を訪れるべきだろ。 父だけを訪れようと、母だけを訪れようと、 その偏りが生じる要因は、子どもが彼らを《人として》一目置いてないからじゃないか? まぁ‥‥こんな分析もまた、ナンセンスでしかないんだけど。
相談‥‥。 友達に相談できなかったとしても、誰かは居るだろ‥‥話を聞いてくれる相手がさ。 それが幼馴染なり、同期なり、あるいはWeb上の誰かなり、誰かしらは居るだろさ。 ‥‥あるいは、俺のよーに勝手に首を突っ込むヤツがさv
ただ、相談をして自分が望む回答を得られなくても、その相手を恨まないことを願う。 誰もが独自の思考を持ち、それは独自の志向を得ていて、それは独自の背景に裏づけされる。 《離婚》という結果もまた、これに導き出された結末であることは否定できないけれど。 でも――それでも、その相手と自分との間には、《関係》があるはずなんだ。 相談という手段は、その《関係》の太さの証明になるだろ。 ‥‥その結果がどうであれ、その関係を切るとか切らないとかはまた別問題だけどさ。
家族が居る、友達が居る、恩師が居る、周りにいろいろ居る。 人は、独りじゃないんだ。 少しでも身近な人間に、いくらでも話していいんだ――相談していいんだ。 その相手が、より信頼を置ける相手であったならば、なおイイけれど。
人は、独りじゃない―― それを証明するために、俺や、俺のような《お人好しバカ》が存在しているのよ。
‥‥って、こんな支離滅裂な文でも、日記読み日記として認めてくれるかしらン? どうかな‥‥心友たちよ‥‥? 俺の言いたいコトがまとまっていないことはともかくとして、 より伝わりやすい方策があったならば、誰か教えてくれ‥‥。
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