カウントシープ
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2005年05月13日(金) 絵画考察2 絵の向こう側

さて、絵画とは人が描いた物であるからには当然作者が存在するだろう。ある作品を好きになったとすれば、この絵を描いたのはどんな人物か?と思うのはワリと自然な流れに思われる。

絵をそれ単体のものとして心に留めておくこともまた魅力的に思えるし、敢えて作品そのものだけを味わいために作者のことなど関心を寄せないという部類の人もいるだろうが、(ボクもかつてはその部類にいたのだが)ここでは絵の背景の作者について考えることにする。

一枚の絵を見て、あるいは複数の同作者の絵に感銘を受けた時、その作者がどんなメッセージを込めて描いたのかはもちろんのこと、1人の人間としてどんな人生を送った人なのかまでも知りたくなるのは何故なのか。ひとりの人間が自分の魂を分けるようにして生み出した作品、その魂の欠片に触れたものが、欠片では飽き足らずその人間まで近づきたくなるという気持ちは何処から湧いてくるのだろう。(これは別に絵に限らない。作曲家を、歌い手を、演じている俳優の私生活をも人は知りたがる)
一方的にその作品によって心の線を弾かれた者が、もっとその作品を、作品の源である作者を知りたいと思うから?

少なくとも作品を作る側は作品を通して自分を晒している。自分を表現したとして、そこにはギャラリーが必ずいるのであり、それを受け止めて欲しいという願望を込めて、筆は持たれるのだ。知りたいものと知られたいもののニードは合わさっているのだから、そこにはある種の一体感のようなものが流れてくるようにさえ感じる。


見られたいからといって、全てを見て欲しいわけではない。全てを見られては人は狂ってしまうし生きていけない。見る側もそれを承知していなければならない。絵画の前に立つとき、作者と観客とが、それはひいては人が他者と一体感を味わうことができるかもしれない可能性が提示されるのだ。


ロビン