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2005年05月12日(木) 絵画考察1 情報の集合体

絵には写実的なものと、抽象的なものがある。もっと沢山表現はあるだろうが語るほど絵画用語?をよく知らないのでこの場合はものすごく大きなカテゴリーとして絵画を2分してみたとして、

見たものをありのまま表現する(もちろんどんなに緻密に表現したとしても、その中に作家の意識が加えられる)写実的な絵は、まず理解しやすい。何が描いてあるのかが一目瞭然であり、それはまた自身にとってもどこかで見た光景や、あるいは知っているエピソード(例えば宗教画)なのだ。
それゆえ魅力がないという人もいるかもしれないが、ありのままのものがつまらないというならば、写真というアートはどうかといえば、写真もひとつの作品であることは間違いないだろう。

ピカソのようにキュビズムで表現されたり、ミロのように半ば記号化されたような絵になってくると、良し悪しは多聞に分かれてくるだろう。そのセンス、今までにはなかった表現の背景に、人々は驚き、最初はとても受け入れられなかった。しかし、一枚の絵は、ピカソという画家の人間が描いた、人間からのメッセージであるのだから、沢山要る人間のうち誰かはピカソの絵を理解することになるのだ。

おそらくピカソは、人間の心の底に共通するヴィジョンを描いたのだ。今まで誰も気がつかなかったような、もしくは気がついてはいたものの視覚的表現まで持ち込めなかったようなヴィジョンを、キャンパスの上に描き出してしまったので、最初は戸惑われ、後では支持されたのだ。(ボクは別に特にピカソが好きなわけではない。スゴイと思うのと、魂が持っていかれるのとは違う)

絵や写真というのは視覚的な情報だけなのであり、ボク達はある作品を見た瞬間に、今までに記憶したさまざまなビジョンと交錯させる。そして形、色、大きさなどさまざまな情報の集合体のそれに、懐かしさを覚えたり、微笑ましさや美しいもの、悲しみや怒りや孤独などの感情を引き出される。また、既知の光景とは少し違う形に新鮮さやひねられたユニークさ、そして意識していない部分=無意識で見て未だきちんと把握できていないヴィジョンを見てはっとする。
それは写実的であろうが、抽象的であろうが変わらないメカニズムで、只の視覚情報の集合体はひとつのメッセージとして心に届くのだ。


ロビン