カウントシープ
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| 2005年08月01日(月) |
お人形遊び ユノア・クルス11 |
言ってしまえば人形を扱うとき、ボク達は圧倒的優位に立っている。主導権は全てこちらにあり、相手はされるがままだ。 バラバラになって、目玉さえも入っていない状態の人形はモノの状態そのものであり、組み上げても、その関節は頼りなくときにあらぬ方向に回転してしまったり、支えていないと姿勢を維持できない姿は、とても受動的な印象を与える。
それでも、最近のSDやユノアはかなり関節構造がしっかりしていて、とくにユノアは自立はもちろんさまざまなポーズを取れたりして、荒木氏の才能には感嘆するばかりだ。 産毛さえも顕された荒木氏のドールは、人形たる部分をできるだけなくし人に近づき、かつ彼の好みを反映させた少女で、まるで人そのものの姿を前にしては、もうこの“人みたいなもの”に何かしてはいけないような錯覚さえも覚えてしまう。 SDがちょうど赤ちゃんと同じサイズなのは、抱いたときに腕の中に納まるようにということだろうし、その意図はなかなか絶妙だと思う。27センチドール(リカちゃんサイズ)の人形を人だと錯覚することは少ないだろうが、60センチの人間は赤ちゃんとして存在するのだ。
ユノアを40cmにしたのは、SDは大きくて持ち運びに不便だ、という声を反映させたから、というようなことを彼は言っていたように思うけれど、持ち運べる、手中に収まる、だけれどそれなりの人らしさを備えた人形のサイズとなると、この40cmというのは案外ピタリとくるのかもしれない。
書いてて思い出したけれど、昔「南くんの恋人」という漫画があった。内田春菊の作品で、ドラマにもなっていたけれど、ボクはこれを読んだり見たりしたわけじゃない。たまたま「ダ・ヴィンチ」という雑誌に彼女の特集があって、そこで得た情報が少し頭の中にあるだけだ。 南くんの恋人の女の子は、ある日突然リカちゃんと同じくらいのサイズに小さくなってしまって、戻ることができない。今までみたいに触れ合うこともできず、そこには精神的な繋がりしかないのだ。触れることのできぬ関係だからこそ繋がっていく精神、という観念もあるだろうが、触れ合う仲として一緒にいた2人が触れられない関係になってしまう、この立ち位置の変化は、2人には厳しいものだっただろう。たしか、最後は女の子が死んでしまって終わる話だったが、死ぬしかなかったのだと作者が書いていたのが、印象的だった。
脱線したが、人間と人形とは、あくまで接触することはできないのだ。そういうことになっていたのに、荒木氏がイベントで展示したいた人形は肌も柔らかく、陰影もあり、潤い、産毛も生えていて、あの、冷たく硬い人形独特の拒絶感を感じさせない。思わず抱きしめてみたくなるくらいの、人らしさを、彼女達はすでに獲得している。 新しい人形の形として進み続ける彼の人形が何処に向かっていくのか、それにはちょっと興味がある。
ロビン
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