| 2001年09月12日(水) |
それでも「林竹二 天の仕事」(日向康)を読む。 |
それでも「林竹二 天の仕事」(日向康)を読む。 「その学問、その思想ー核としてのキリスト教を中心に」の章は178ページまで続く。どうも回り道ばかりで核心に触れていない(いや、実はこの部分が核心なのかもしれないが)気がして、この賞はリタイアすることにした。次の章「教育観の根底にあったもの」へスキップした。まず「その哲学的凝縮ー”授業”を続けるなかで」(180ページから)を挑戦する気分で読み始める。話題が林竹二が行った授業のことなので具体的にわかり面白い。そのことを書いている筆者が当時あまり面白いとは思っていなかったのがさらに面白かった。 次に『教育・訓練・調教ー「その哲学的凝縮」補言』がもっと面白い。それは斉藤喜博との違いを示し、同時に林竹二の教育に対する考え方がはっきりしてゆく過程がうまく語られるからである。 「授業が子どもの中に何事もつくり出すことがないならば、どんなにうまい授業であっても、それは無意味だといふうに思います。」 「授業以前の問題、生命への畏敬の欠けたところに教育はない」 既にその分野では有名な言葉なのだろうが、やはり印象的なので引いてみた。 その立場からの「授業研究」としての「授業」がついには自身の思想・生き方そのものと結びついたところにこの林竹二の凄さがあることがわかった。 この部分がもしかしたらこの本のへそでないだろうか。核心はここに、と思った。まだ半分くらい残っているが、あとはこの部分の再生産・繰り返しかもしれない。となると、やはり面白いとは感じなかった前の部分が、今度は気になってくるから不思議だ。 何を言ってるのやら。
「駅 JR全線全駅 (下)」(文春文庫)をちらっと見てびっくり。日本の各駅紹介が手短に書かれているのだが、その駅が登場する文学作品のその部分の引用があることに気づいて俄然興味を持った。西村京太郎が多そうな気もするが。この巻のトップは城山三郎で、次に志賀直哉、北杜夫と続いている。ちらちらと気長に読んでみよう。
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