寒くなるとお茶の美味しい季節です。
お友達に、本場のチャイをご馳走してもらいました。 スパイスが3種類入ってたらしいです(良く判らない)。 名前を聞いたのですが、覚えていません……。
私が自宅で作る簡易チャイは紅茶をミルクで煮出して、 砂糖をたっぷり加え、シナモンで軽く味付けしただけのもの。 それに比べるとご馳走になったチャイは味が濃厚で、 スパイスのいい香りがして、とてもあたたかでした。
とっても美味しかったです。 私も作りたいなあ。
そう言えば、「マサラ・チャイ」って言ってたっけ。
今日はショックなことがありました。
ちょうど、
「長年追っていた事件の犯人を あと一歩で突きとめられる!! というところで、その人物が既に別件で 同僚に逮捕されている事を知った刑事」
のような気分になりました。
あーあ。
今日は死体を見つけました。
「死体」……そう思った。 ありきたりだけれど。
それは、以前はきちんと明りを灯し、音を鳴らし、時刻を知らせ、言葉を送り、音を伝える為に機能していた。 ―――そう、携帯電話だ。
家に帰ると、昨夜からやりかけていた雑誌のスクラップや、書きかけのお話の為に開いた辞書や、今日持ち返ったいろいろなもので机の上は飽和状態でした。そこでスクラップを片付け、辞書を閉じて積み、持ち返ったもの(ポストカードや紙類)を整理して、そしてついでに机の下に入っているいくつかの道具箱を掘り返したのだ。 道具箱、とは言っても道具が入っている訳ではなくて、扱い方が小学生の「お道具箱」に近いのでそう呼んでいるだけの、ただのダンボール箱や大きめの缶だ。かつては靴が入っていたりクッキーが入っていたりした。 その中には、今は昔の手紙や創作ノートが入っている。
その中に、携帯電話を購入した時の箱があった。 何が入っているかは知っていた。以前使っていた携帯電話がひとつ。そう思って、箱を開けた。 ……すると。 そこには携帯電話が二つ入っていた。 以前使っていた白いものがひとつ。これが予想していたもの。背を向けて横たわっていた。 もうひとつは、現在使っているものと同じ機種で、紺色のもの。水に浸してしまい電源が入らなくなった為に買い換えたのでここに入れたのだった。忘れていた。
まずは紺色のものを手に取る。当たり前だが、電源は入らない。 そこで、白色のものを手に取って、画面を見ようとひっくり返して……驚いた。
そこには、「死斑」があった。
なんて書いてしまうと馬鹿馬鹿しいだけなのだけが、白い液晶画面にじわりと濃紺の染みが滲み出ていた。その所為かぎょっとしたし、これは死体なのだと思ったのだ。 働いている携帯電話にはない軽さがあって(重いストラップがついていない所為だが)しんみりした気分になった。
あまりに寂しかったので、すぐにゴミとして捨てようと思ったが、携帯ショップに持って行って処分してもらおうと思いなおして、置いたままにしている。
最近、おもちゃデジカメが大好きです。 解像度がとっても低いのですが、ちゃんと考えて被写体との距離を取れば結構満足のいく写真が取れる程度には親しくなってきました。
もちろん、目的はサイトに載せること。 「足もとのアルバム」、ですね。 変な目的だとは思いますが、その写真に何かしらの言葉を添えて、シリーズ化出来るのが楽しい。 大したものではないけれど、自己満足の領域。 もちろん、このサイト自体も全て自己満足の世界なので当然ですが。
自己満足の世界を誰かに見て頂いて、それで余計に自己満足するというのは、 結構タチが悪いのかもしれませんね。
ともかく、おもちゃデジカメが大好き気分。
2002年09月18日(水) |
数字の気色(スウジノケシキ) |
この話は以前、どこかでぽろりと漏らしたかも知れません。 のらくらとHP運営なんてやっていますと、どこで何を話題にしたか時々忘れてしまうので、同じことを書いていることがあるので、この話もしたかも……。
気を取り直して話題を取り上げてみましょう。 数字の気色(けしき)について。
私は、根拠もなく固執しているイメージをひとつ持っています。 それは、
47は、紫の数だということ。
ええ、意味が判らないと思います。私も判りません。 ただ、思うのです。信じている、に近いかも知れません。 47は紫だ、と。
よくよく考えて見れば元ネタがあるのかも知れませんが、今のところ思い当たる節がないので、保留にしています。 47は紫の数。 7自体も紫の数です。転じて7×7=49も紫の数。
けれど、 1は赤。 5は青。 と言えば、同感して下さる方がいるのではないでしょうか。 これは元ネタが判っています(笑)。 「鍵盤ハモニカ」なんですよ。あの、チューブに息を送ってピアノのような鍵盤を押して演奏する「鍵盤ハモニカ」。 「ド」は赤。「ソ」は青。まだ楽器に慣れない小学校一年生の頃、鍵盤にその色の丸いシールを張りませんでしたか?それが指の順番に1と5に当てはまる感じ。 7が紫って言うのは……もしかして、「シ」が紫のシールだったのかしら。
根拠がないぶん、変なこだわり(?)だな、と自分では思っているのですが。
雨が降って、 寒くなりました。
秋、秋、秋。 嬉しいですね。 わくわくわく。
えへー。
最近、ここ3週間前あたりからまたライフワークに読書が組み込まれました。かなり久し振りです。私には約半年周期で「読書時期」があるのですが、どうやらそれが来たらしいですね。
読書時期には、好きな作家さんや好きなジャンルで手を広げてみるという時期と、新しい分野に果敢にチャレンジするという時期がありますが、今回は「好きな作家・ジャンルで幅を広げる」時期らしいです。
と、言う訳でこの頃はミステリィ開拓中。 8月中に森博嗣氏の犀川先生シリーズをある程度読みました。あと2冊、一番読みたいものが残っているのですが、図書館に入るのを待とうかな……と思っているところ。 折原一氏の『覆面作家』を読んで、どうやら陳述ミステリィは結構好みらしい、と知ってみたり。
あ、そう言えば。 最近ミステリィを読んで、ちょっと笑ったことがあります。別にミステリィに限った話ではないとは思うのですが。 森博嗣氏の探偵役、「犀川創平」。 篠原真由美氏の探偵役、「桜井京介」。 どうやら、両者とも美形らしいです。けれど、私は犀川先生はずっと平凡な容姿だと信じていました。つまり、それくらい(多分)どうでもいい記述で表現されたいた訳です。けれど。桜井京介に至っては、すごい演出で美形っぷりが強調されていたんですよ(笑)。
どうでもいい話と言えばどうでもいい話なのですが。 そういう差って面白いな、と思ったのです。作家の差なのか、作家の性別の差(……?)なのかその他原因があるのかは知りませんが。 でも、個人的に爆笑でした。
あ、ミステリィ談話じゃないですね、これ……。
独りではできないことが沢山あります。 深い意味ではなく、ごく表面的なことで、独りではできないこと。
例えば会話は独りでは出来ませんし(独り言は会話ではありませんし、個人で対話が出来る方もいらっしゃいますがそれでも仮想の相手が居ると思うので)、喧嘩も出来ないし、シーソーでだって遊びにくいです。
また、独りではやりにくいことも沢山あります。 これは、ひとによってばらばらでしょう。
私は、独りでカラオケに行けません。 独りで夕食を食べにレストランに入れません(ファミレス除く)。 電車の中や駅で漫画を読む勇気はありません(これは友達がいればマシかも知れない...)。 けれどね、実は独りで喫茶店でケーキセットが食べられる人なのです。
コーヒーだけ飲む、と言う方は多いのかな、とは思いますが。 あまり喫茶店でケーキセットを食べてる客一人、というのは多くないかも……と思ったのですが、どうでしょう。 これに抵抗がある人も結構いるのでは? 私も場処によっては抵抗があるのですが、何故なのかしら……と、自問。 答えはいまだ見つからず。
個人的に、立地条件が微妙に好きではないのですが、その店内装飾のコンセプトが好きで、時折思い出したように行く喫茶店があります。 別にケーキが美味しい訳でも、コーヒーが美味しいわけでもないのですが、すみっこのソファ席を占められるとちょっと嬉しい。 そこでは何故かケーキセットを頼んでしまいます。ケーキと、コーヒー。 長居できるメニュじゃないだけに、コーヒーをやけに大切に飲んでしまいますが。そして、その店の雰囲気も場合によっては全然長居出来ないのですが。 けれど、なんとなく好きだなあ……。
―――なんて、少し思い出したので話題にしてみました(笑)。
忙しかった...と言うよりも精神的に切羽詰っていた時期を越えてしまうと、急にこの黎明ノォトに何を書けばいいのか良く解らなくなってしまいます。 やはり思考というものは、思考という過程に慣れた頭脳が行うことなのでしょう。
普段、使ってもいない頭脳で何かを思いつこうとしても、無駄。 慣れ、訓練...いろんな表現があるとは思いますが。
そういう訳で、次の訓練に移ろうと思います。
きっと、私は一生“言葉”に縛られていくのだろう。 ふとそんなことを考えていた。
きっと、世の中には本当に正確な言葉なんてない。 紛い物の言葉が溢れて、それらの中であわあわと泳ぎ回って何とか真実に近いものを捉えようとしているのだろう。 紛い物の言葉だらけだけれど、その中にもいろんな種類の紛い物があるから、きっと真実よりも先に泳ぎ疲れてしまう。
例えば、人は嘘をつく。嘘をつこうとして嘘をつく。 嘘をつくことが(または嘘をついて相手を驚かせるのが)目的であったり、現実を隠したり和らげる為に嘘をついたりもする。 また、そもそも言葉は感情と全く等価のものとして存在していない以上、真実と表現の間には溝ができ、意図せずともほんの少しの偽りを放つことになる。
そして、これから述べることが今日の議題。
人は、嘘をつく。 それは、本当にタチの悪い嘘だ。誰が悪い訳でもない、そして誰でも絶対に犯したことのある筈の間違いなのだ。けれど、その嘘をついた人は自分が嘘をついているとは思わないし、自分が嘘をついた事に絶対気付かない、その嘘をつかれた人もそれが嘘だとは気付かない。 こんなことを言っている私だって、本当はそれを嘘だと決めつけられない。けれど、そういう嘘が在ると、自分の身を振り返ってそう思った。 誰一人として気付かない。まかり通ってしまう。 そうやって嘘は真実に限りなく近くなっていく。 それは、本当にタチの悪い、言葉の罠だ。
特にそれが、口から発される一時的なことばであればこそ。
人は回りに言葉を溢れさせているから、自分の言葉と外部の言葉をうまく区別できない。同じ言語だから。 感情が激したときに、咄嗟にあふれ出る言葉がある。 私はそれは真実に近いことがある、と思っていたけれど……今ではそう言えない。今なら、きっとこう言って仕舞う。
「感情が昂ぶっている時の言葉は、限りなく装飾に近い」 と…………。
便利なもので、人は自分に酔うことが出来る。自分の言った言葉に酔う事が出来る(そして、私はその傾向が顕著だ)。 だから、感情が昂ぶっている時に紡ぐ言葉はドラマっぽいことが良くある。 どこかで聞いた言葉。 いままで、一言も言わなかったようなことをまるで正義を振りかざすように、またはまるで自分を悲劇のヒロイン、ヒーローに仕立て上げるような。
「売り言葉に買い言葉」という言葉があることを思い出す。 この言葉が通用するのは、“仲直り”という概念が存在する喧嘩にのみだ。 なぜなら、この言葉は謝罪と弁明に使うから。例えば、「あれは売り言葉に買い言葉だったんだ、あんなこと思ってないよ、ごめんね」…なーんてね。 それ以外の喧嘩に「売り言葉に買い言葉」がないのか、と言えばそんなことはない。あるはずがない。喧嘩は喧嘩なのだから。
だったらどうなるかと言えば、それらの言葉は「真実」として扱われてしまうのだ。自他ともに。
これは怖い。自分も信じてしまうところが怖い。 自分が信じれば、それは真実だ。揺るぎもない事実になってしまうのだ。 嘘だ、とも言えない。個人の問題だから。
何ともうまく言えないがそういうこと。 私はこんな「言葉」という概念ばかりに気を取られてしまう。
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