懐古的な気持ちになっていたので、 昔の気持ちや記憶、趣味なんかを拾い上げて眺めていたら なぜだかちょっと元気になった。
「まだ残っている」と思ったのだ。
それはこの”黎明ノォト”を初日から読み返したときに一番強く思った。 「過去の自分」を「他人」のようにしか思い起こせないが、 そこには確実に「自分の痕跡」がある。 過去と現在に断絶を感じて過去のノォトを消そうと考えたことがあるけれど (そしてその面倒さを思って中止していたけれど)、 その必要がない程度には「自分の痕跡」が残っていて、 むしろ思いこんでいた「断絶」は一足で飛び越せる程度のものだと知る。
お話を少しずつ掘り起こしてみるか。 構想ノートも一行ずつ書いたり消したりしてきた。 新しいものがつくれるとは信じていないけれど、背景の一切ない一幕くらいなら。
そのことはたぶん、これまで嘆いていたいろんなことを洗い流す力がありそうに感じている。
恋愛小説を読んでじぶんのなかに「乙女」を取り戻そうとするのはちょっと卑怯な気もする。 けれど、そんな単純で甘酸っぱい刺激に飢えているというのは事実、か。 仕方ないかな。
齢三十一、 結婚して四年、 子もなく気楽に働く日々。
* * *
小さなお話を書いては自己満足に浸っていた日々ももはや遠く。 遠くへ来たものだ。いや、と言うより・・・
――――実は『過去の自分』を『他人』のようにしか回想できない。 この癖は、これまで生きてきたどの時点についても同じだ。
自分が映った写真を見ても自分を探すのに時間がかかる。 自分の顔と姿を『自己』として捉えられないらしい。 写真からは何も思い出せない。おそらく…「自分の視点」でないからだろう。
私は私の見た世界で過去を位置付けている。 「見た夢」や「読んだ小説」や「見た映画」が収納される記憶部分と近い。 それは誰しもに当てはまることなのだろうか? 一部の人間特有のことなのだろうか?
少なくともQは別人種だと思う。
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