| 2001年07月31日(火) |
辻仁成「海峡の光」読む。山田風太郎、逝く。 |
辻仁成「海峡の光」(新潮文庫)を読む。 小さなエピソードの積み重ね方、挟み込み方が巧みだ。この人はどんな人なのかと考えるようになっていて、そう考えていると具体的な話が、結構刺激的な話が出てきて、それに釣り込まれていく。 エドガー・アラン・ポーの「ウイリアム・ウイルスン」を思い出した。他者を鏡とする自己との戦いの物語。他者にも自己にも敗北したことを認めたくないのだが、既に負けたことはおのれがよく知っているのだ。 作者は細かいところまでよく取材している。三十代後半の年齢の人が書いた物語とは思えないところがある。五十歳程度の人の経験が必要と思われる内容と語り口である。主人公の年齢が三十歳前後だから問題ないといえばないのだが。妙に老成した小説と感じた。 また、その話そのものもどこかで読んだような見たような知っているようなという思いが常にあった。主人公の考え方というか感じ方もこういうのはどこかであった。人間関係の描写も。具体的には何も浮かばないのだが、そんな感じがつきまとって離れなかった。 盗作というようなことではなくある種の模倣ないし勉強の成果ないし読書の記憶なのだろう。だから「海峡の光」は過去の文学作品の成果から導き出された一つの模範解答というべきなのだ。作者の従来のイメージを打ち破る伝統的正統派文学の結晶である。 山田風太郎が死亡した。七十九歳。病気のせいで最近は作品を書いていなかったが、先だってインタビューを元にした本が出版されたばかりだった。忍法帖もの、幕末・明治開化もの、柳生十兵衛ものなど独創的な物語作者だった。 R・D・ウィングフィールドの「クリスマスのフロスト」(創元推理文庫)を本棚の奥から探し出す。シリーズ3作目「夜のフロスト」が先ごろ出たからである。未読の2作目「フロスト日和」を味読しようと思ったのだが、1作目は読んだはずだよなあ、となった。はずだが、内容をまったく覚えていないし、内容を忘却しているのはいつものことだとしても読んだか読んでいないか、または面白かったか面白くなかったかくらいはおおむね覚えているのに、「クリスマスの」は最低のそれすらわからない。そこであらためて読んでみることにしたのだ。思い出したらやめる。 「始祖鳥記」はしばらくおあずけとなった。
| 2001年07月30日(月) |
北村薫「リセット」読了。森鴎外「独身」を読んでみた。 |
北村薫「リセット」読了す。 1995年の「スキップ」、1997年の「ターン」そしてこの2001年の「リセット」と読んできて、なんといっても「スキップ」が面白かったと思うが、複雑な気分でもある。「ターン」は「スキップ」とは雰囲気や設定に相当の違いがあって、さわやかさはあったが、意外性に乏しいぞ、「スキップ」を超えていないぞ、と言いたいの我慢して面白く読んだ。今回の「リセット」は当然「スキップ」を凌駕しているにちがいない、と余裕で臨んだ。至福の時到来!物語神降臨!信じて読み始めた。 「盤面の敵」の作家がたくらむ大きな仕掛けを期待した。 しかし、少女趣味的な語りで始まったセピア色した時代の物語は、たいしたうねりもないまま途中で語り手が変わり、変わっても話は予定調和的にしか展開せず、終わってしまう。残念ながら、達者な語り口のおかげで飽きずには読めたが、はずれだった。「盤面の敵」の凄さがあれば、と思った。 最近似たような話を読んだと「ライオンハート」(恩田陸)を想起した。「スキップ」も連想した。 「スキップ」は過去と現在の途中が消える話。「ターン」は現在の時間が過去と連環する話。では「リセット」は、死んだ人間のこころ(?)が別の人間の体に転生して愛を成就する話。愛は時間を越える話というべきか。やはり「ライオンハート」に似ている。 取材や参考文献の多さで時代背景については十分説得力を持ち得た。が、その分遊び方を間違えた作品になった。もちろん、それでも十分面白いのだが。 森鴎外の「独身」という短編を読んだ。甘口の文章のあとにちょっと辛めのをと岩波書店の「鴎外選集第二巻」(石川淳編)の冒頭の作品を読んだのだ。 「小倉の冬は冬といふ程の事はない。」で始まる、明治四十三年発表のものだが、現代的である。要するにいい年をしていまだ独り身の男たちのそれなりの当たり前の話で文章以外に取り柄があろうとは思われない。食事などもまともに用意できないので友達を家に呼んで酒を飲んでも酒の肴はうどんになってしまう。「饂飩」「饂飩」とこの字面がやたらに出てきてそれが印象的だった。今から九十年程前の小説で描かれていることが今とそれほど違わない点も妙だ。
| 2001年07月29日(日) |
小森洋一「英語で語る『日本文学』」を読んだ。 |
岩波新書「英語とわたし」から小森陽一のエッセイを読んだ。 収録二十三編の中からその「英語で語る『日本文学』」を選んだ理由は単純。「小森陽一、ニホン語に出会う」を読み、さらに「文体としての物語」と「漱石を読みなおす」などを拾い読みしたことがあるからだ。言動に悪いものを感じない。 日本文学について話す時、ほとんど英語を使っている。これが題名の意味である。日本文学を研究する者がその研究のことを語る時、英語を使う。一見矛盾するようだが、聞き手が日本人だけとは限らなければ、決して奇異ではない。ただ筆者はそういう外的条件以外に、日本語の時には問題を感じなかったことが英語に置き換える作業を通して曖昧だったことに気づかされ、明確になっていく。畢竟、厳密にならざるを得なくなるというような意味のことを言って、英語で日本文学を語る意義を積極的に認めている。 アメリカの大学でゼミの院生との議論が激すると、筆者が英語を使い、相手の院生が日本語でまくしたてるという話は面白い。今日は選挙の日だからじゃないが、国際化を連呼しながら実際はその逆の道を進んでいるような国の文学がそんなふうに語られ、研究されている。それは正しい国際化である。 文中に「限定された知的枠組でしかないということに自覚的になるべきだ」とあるが、「枠組」の中に自分がいることに気がつくのはほとんど困難だ、と全く関係ない感想をもってしまった。 以下、今日覗いた本。 「続・死ぬまでになすべきこと(やっぱり自分だけが頼りです)」角川書店文庫(式田和子) 「百人一首」講談社文庫(大岡信) 「父・こんなこと」新潮社文庫(幸田文) 「ティーターン」東京創元社推理文庫(ジョン・ヴァーリイ)(訳=深町眞理子) 「世界の秘密の扉」東京創元社推理文庫(ロバート・チャールズ・ウィルスン)(訳=公手成幸) 「始祖鳥記」小学館(飯嶋和一) 「本の雑誌」八月号 今日は「始祖鳥記」を半分は読むはずだった。読めず。
| 2001年07月28日(土) |
読書日記にならない、重症? |
重症?本を読む気が起きず。断片的な読書しか最近していない。この日記も三日坊主にならなかっただけで、もう風前のともしび。 ただ、本を買う方はまだ大丈夫。書店の本棚を前にすると変な読書意欲が沸き起こり、衝動買いする。 「英単語スーパー“語源”記憶術」宝島社新書(小池直己) 「英語とわたし」岩波新書(岩波新書編集部編、筑紫哲也・有森裕子・鴻上尚史・佐渡裕・引田天功・幸田真音・河合隼雄・鷲津名都江・遠山顕・上野健爾・杉村隆・明石康・小森陽一・藤井省三・清水真砂子・吉田ルイ子・船橋洋一・米沢富美子・貫戸朋子・伊藤比呂美・姜尚中・河野太郎・小林陽太郎) 「フォト・ジャーナリストの眼」岩波新書(長倉洋海) 「新・ペットはかわいがるほど早死する」ごま書房(南毅生) 以上四冊。 ただし、読める当てがない。積ん読の果てに。
| 2001年07月27日(金) |
「スペース・カウボーイ」を今日も観て時間が足りなくなる。 |
「スペース・カウボーイ」の続きを見る。地上でのさまざまな葛藤をエスプリを利かして描いた後はどうなるか。宇宙での活躍も手抜き一切なしでリアルに自然に描き、奇跡的なある帰還もありうると思わせた後のラスト・シーンは完全にSF史に残る見事で完璧な着地。SF史に残るというより、西部劇またはマカロニ・ウエスタンの歴史を踏まえているというべきか。題名が「スペース・カウボーイ」なのだから当然あるべきラスト・シーンというべし。DVDではなくて映画館で観たかった。 そんなかんなで本は読めず。最近読書日記になっていない。苦し紛れ日記である。で、講談社の「イン・ポケット」六月号の巻頭対談を読んだ。直木賞受賞作家同士の二〇頁以上あるがっちりした対談である。タイトルは「江戸の女は私たちよりも幸せ?」だが、現代の批評になっている。「幸せっていうレッテルを貼れる目標を取っかえ引っかえやってきて、今手持ちの品が切れちゃった。」「真面目で一所懸命働く人であればあるほど、部品になってしまってる。」など決して斬新な意見ではないが、今の社会をしっかり見ている。 宮部みゆきの最近作「模倣犯」は読んだが、坂東真砂子は「山妣」でとまっている。坂東真砂子も再点検要である。 それにしても「イン・ポケット」はお徳用である。
| 2001年07月26日(木) |
「スペース・カウボーイ」を観て時間が足りなくなる。 |
「スペース・カウボーイ」を1時間見たので読書できず。 先だって「千と千尋の神隠し」を見たせいか、映画の方に心が向いてきているような気がする。で、読書日記を毎日つけるのがつらい。しかも、今日はまとまって読んだものはない。 待望の「イン・ポケット」7月号と「本の雑誌」8月号が講談社の「本」8月号とともにやっと届いた。なまものだったら、とうにいたんでいる。発行元や書店が悪いわけでもないらしいので文句は言わない。グチは言うが。 とりあえず3冊の雑誌を飛ばし読みした結果、記憶に残ったのは次の通り。 「本」では、出久根達郎「貸本屋の客」と笙野頼子「森茉莉の捨てた猫」の2編。 「本の雑誌」では、椎名誠「今月のお話ー北と南のいかがなものか」と(杉)「後記」の2編。 「イン・ポケット」では、恩田陸「恐るべき入口」 隅から隅までまめに読んではいないのでもっと面白いものを見逃している可能性もある。 「スペース・カウボーイ」を一気に見られるでもなく、「リセット」の続きを読めるわけでもなく、悩ましいどうにもならない一日だった。
| 2001年07月25日(水) |
北村薫「リセット」と辻邦生「微光の道」を並行読書。 |
北村薫「リセット」(新潮社)、辻邦生「微光の道」(新潮社)を読み始めるが、野暮用でなかなか先に進めない。「スキップ」はテレビドラマにもなり、その評価はある程度決している。タイムスリップ物というより普通小説といった方がいい。あまりにも達者な書きっぷりでひとつの理想的作品が作られたと思ったくらい感動的な物語だった。次の「ターン」は今一つの感じがした。今度は虚構の度合いが強く感じられ、設定に納得するまでに時間がかかった。「時と人」三作目の「リセット」をまだ18頁しか読んでいない。時代は過去。どうやら第2次世界大戦前後。若い女の子が語り手であり主人公で獅子座の流星群を父親と一緒に目撃したことが重要らしい。なんとなく少女趣味を連想させる語り口で、思わせぶりでもある。一気に100頁は進めそうな心地よい文章だが、残念ながら中断。 「微光の道」は先だって亡くなった辻邦生のエッセイ集。「私の好きなミステリー・ベスト5」とか「私の好きな文庫本ベスト5」にまず目が行ったが、巻末の佐保子夫人の「字を書く手・・・・・あとがきにかえて」が良い。辻邦生の最近までの過去を語り、辻邦生が原稿用紙に向かって文字を書き継ぐ様子や街角にたたずむ姿を見事に蘇えらせている。夫人もまたすばらしい書き手である。 その一節「通夜の晩には、森の暗い木々を透かして満月が昇ってくるのが見えた。」辻邦生は最後まで美しい場面を演出したということか。 以上、過去が現在を印象的に染め上げる話として。 「フォーカス」を廃刊するくらい経営が大変らしい、両方とも新潮社発行の単行本だった。
| 2001年07月24日(火) |
岩波の「読書のすすめ」第6集は正直だ。 |
「読書のすすめ 第6集」(岩波文庫編集部編)、今回はみんな正直だ。毎回さまざまな筆者が登場して愛読書などについて語るのだが、最新の第6集は抜きんでて正直、開けっ広げに自らの読書体験を語っているように思える。 牛島信明は「することといえば本を読むことと酒を飲むことぐらい。」と語り、木田元は「そのころやはり絶望しきっていた私は、この主人公たちに自分を投影して気持を慰めていたのだと思う。」と述べ、轡田隆史は「したがって、勉強のほうはからきしダメ。」と告白し、坂田靖子は「私はその本の分厚さと重さにメマイがしました。」と言い、清水良典は「・・・じつは内心うんざりしながらも、一種の見栄、あるいは重苦しい義務感で、仕方なしに読み始める。」と懺悔し、高橋英夫は「実は私は、娘が高校時代に使った指定参考書『新修国語総覧』というのを、「これは便利だ」と、辞典類を並べた書棚に一緒に置いて、今でも時々使っている。」と説明し、田中克彦は「このようにして得た見通しは、決して手放さないぞと考えているうちに、いい年になってしまった。」と悔い、増田れい子は「自分が誰にも何にも気兼ねすることなしにひとりでじっとしていられる空間と時間が欲しい。」願う。 結局全八編の読書エッセイ集になっているわけだが、単純に最も面白かったのは坂田靖子の「漱石先生にとりつかれる話」だった。 無料の小雑誌だが、中身は濃い。読みでがある。 東谷暁「困ったときの情報整理」(文春新書)を読了。第3章以降は筆者の自伝的回想録としても読める。具体的なエピソードに沿って語られていて、この種の本では今年一番収穫である。行き届いた内容と文章のために筆者の他の本も読みたくなってくる。
| 2001年07月23日(月) |
東谷暁「困ったときの情報整理」(文春新書)は決定版である。 |
東谷暁の「困ったときの情報整理」(文春新書)をやはり買う。 「本の話」でこの本のことを知り、昨日本屋で見つけ手にとってはみたが、買わないで帰ってきた。今日は「千と千尋の神隠し」を観た後、本屋に寄ったので迷ったが結局700円を財布から出した。いま、第2章「知識は詰め込まねばならない」まで読んだところでの判断は非常にまっとうでこれまでの類書の総決算、まとめであるということ。第3章以降の目次を見ての判断は、情報整理についての本はこれ一冊でもう十分だ、もう読まなくてもよいということ。 「記憶に強く残るようにするには、そこに書かれていることに対して、つねに心のなかで『賛成』か『反対』を唱えながら読むとよい。」(58ページ)が印象に残った。 思えば、この本の中でも触れられている脇英世や紀田順一郎らの本を読んでパソコンでの情報整理に長い間あこがれをつのらせてきた。あこがれは全く実現していないが、この手の本は繰り返し読み続けている。書いてあることの百分の一もできないのに、読む楽しみはもしかしたら小説よりも上であるかもしれない。不思議な読書ジャンルだ。 この東谷暁の新著は「パソコンをどう使うか」(中公新書・諏訪)「パソコンデータの捨て方残し方まとめかた」(青春出版社・美崎薫)「パソコンで仕事が10倍おもしろくなる!」(宝島社新書・佐々木康之)などに加えて折りにふれて読み返す本の一冊になった。
| 2001年07月22日(日) |
関係ないけど、金子光晴全集と愚痴でおしまい。 |
午前中は本の整理。二箱程度のほんのひとかたづけ。午後、家族と出かけたついでに変わった名前の古本屋に半年ぶりくらいに寄ってきた。単独行ではないので10分程度と自分で物色時間を区切って本棚をざーっと眺め渡してゆく。結局、メタローグ発行の「編集者になる」と中央公論社が1976年頃出していた金子光晴全集のうち第三巻「詩�掘彗荼浚�「詩�后彗莉輯�「評論�機彗莉住梓�「評論�検彗莉住祐�「訳詩」五冊をあわせて千円程度で購入。随分と重い買い物になった。 さらに本ではないが、今日は珍しくパソコンのソフトとメディアをヨドバシカメラで購入した。アイフォーの「ホームページNinja」と富士フイルムのMO(128メガ)1枚68円を4枚と東ソーのMO(640メガ)1枚290円を3枚なり。どれもたいして使わないので、本を買えばよかったと後悔するにちがいない。 明日は宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」に行く予定。 最後に愚痴。本の雑誌社の「本の雑誌」と講談社の「イン・ポケット」を定期購読しているのに、「本の雑誌」は月末近くに届き、「イン・ポケット」はその書店に入荷しないので別の本屋でわざわざ買ってきてくれた。一体全体!「本の雑誌」はつい立ち読みしてしまうので現物が届いたときには・・・。
| 2001年07月21日(土) |
安原顯の書評集を支持するのは変?か。 |
安原顯「読書狂いもほどほどに」(双葉社)を支持するのは変か。というのはあまりにも個性的で、それは時には粗暴で暴君にすぎないのではないかと、その書評集が出るたびに2000円なにがしの代価を払ってはいるのだが、時には慎重な姿勢で一度は本を棚に戻すこともあるから。坪内祐三という書評家との一種のいさかい(?)論争(?)見解の相違的喧嘩?を知ってからますますそういう思いへの傾向は強い。が、買ってしまう。読んでしまう。楽しんでしまう。 包容力の点では安原顯がまさる、と思う。過激な発言はいったん惚れた場合には底なしのべたほめになるに違いない。人で作品を判断するのではなく、あくまでも作品を判断する独立愚連隊的書評家だからだ。坪内祐三が優れた本を出したら、それまでのいきさつをすべて忘れたように、何事もなかったかのようにはっきり誉めあげるだろうと思う。それが安原顯である。 とりあえず同書26ページから27ページまでの「写真集 国家」についての文章を読むだけでも安原顯が少しわかる。 半年に一冊程度のペースでこれまでの全仕事として三百五十ページ前後の書評本が出る。うれしいことの一つである。
| 2001年07月20日(金) |
今日は文藝春秋「本の話」を拾い読みしただけ。 |
今日は文藝春秋の宣伝雑誌「本の話」8月号を拾い読みしただけ。 今日は暑かった。涼しい所に隠れて何か読みたかったが、野暮なようばかり。ブックオフに寄って次の本を購入した。 サラ・ラッセル「大いなる復活のとき(上下)」(ハヤカワ文庫)、ポール・ギャリコ「猫語の教科書」(ちくま文庫)、エド・マクベイン「最後の希望」(早川書房)、池内紀「読書見本帖」(丸善ライブラリー)、コリン・ローズ「コリン・ローズの加速学習法」(PHP研究所)全部で6冊。一番最初のはSF。ゆっくりと面白い宇宙冒険SFを楽しみたくて直感で手にした。 帰宅すると、「本の話」が届いていたので、階段の上で待っていたハナの頭とのどをなでてやってから、拾い読みする。大岡昇平が二つのエッセイに登場。ぐっと気を入れて読む気になる。阿川弘之の「佐伯彰一著『回想』を読む」と澤地久枝「やさしい先達 大岡昇平」の2編である。芝山幹郎の「キングへの片道書簡」は途中まで。当の作品の中身が少しさらされているように思えたので。アイダブルジーピーの石田衣良が新作「波の上の魔術師」を出すことを知る。 昨日はブックマーケットで16歳年長の知人にあった。坂東真砂子の「道祖土家の猿嫁」を探しているという。ある研究の観点から読みたいのだそうだ。本棚の前でしばし歓談して別れた。で、今日、である。ブックオフでまた再会した。今回はほとんど話はせず別々に本の間をさまよったのだが、件の本は見事見つかり満足げに帰っていった。会わない時は1年も2年もなのに、毎日意図せずに会えることもある。
| 2001年07月19日(木) |
講談社の宣伝雑誌「本」7月号に倒錯的感動を |
講談社の「本」(読書人の雑誌)7月号に変な感動を覚える。城山三郎の「毎日が忘年会」三木卓「宿望のバトル」と来て、次が逢坂剛「近藤重蔵を探して」を読み、ふーん鬼平と同時代の人なのかなどと思いながら、後ろの方の新刊紹介76ページを開いた。三木卓が「宿望のバトル」のなかで新作の「錬金術師の帽子」にふれていたので、値段を確かめようと思ったのだ。2500円かとその左側のページ、つまり77ページをなにげなく見ると、これも先程読んだ逢坂剛の「重蔵始末」の紹介欄があった。その短文を読み、急に「重蔵始末」が読みたくなった。そこにはこうあった。 博覧強記の江戸の官僚・近藤重蔵。その知られざる破天荒な障害を現代に蘇えらせた、著者の新境地を示す魅力あふれる江戸捕物帖。 この文言で俄然興味を抱いた。読みたくなった。しかし、さっきのエッセイにそんなこと書いてあったかなと読み直してみるとやはり何の言及もない。 「知られざる破天荒な障害」とは何だ。「破天荒な障害」とは何か。逢坂剛の隠し玉か、などと暫くのあいだ首をひねっていたら・・・。 閃いた。誤植だ。「障害」ではなく「生涯」の間違い。しかし、「重蔵始末」という作品がそのあいだ物凄く、それこそ魅力的に思われた。でも、もしかしたら・・・
| 2001年07月18日(水) |
佐藤賢一「二人のガスコン」は天才の仕業 |
佐藤賢一「二人のガスコン」を読んでいるところ。二人称でぱしっときめた渋い語り口の歴史小説と思いきやあのシャルル・ダルタニアンとこちらもまたあのシラノ・ド・ベルジュラックの独白が交互にあるいは入り乱れて地の文を侵略し放題でまるで長編落語のようである。または、講談調で文章が絶好調という趣きで紡がれてゆく。上・中・下の全三巻で多少長いが、言葉がことばあそびのようにどんどん浮かれ騒いで先へ先へと走ってゆく。シラノもシャルルも悩みはするが、作者または語り手は明るく絶好調である。作者の年齢の若さを考えるとたいしたものと感服するしかない。
| 2001年07月17日(火) |
小林信彦「出会いがしらのハッピー・デイズ」は愛読書 |
小林信彦「出合いがしらのハッピー・デイズ」(文藝春秋)は怒りの書である。 言葉の使い方に怒り、政治に怒り、映画に怒り、と怒り爆発であるが、一番腹立たしいのはどうやら日本がどんどん悪くなっていくことらしい。政治については絶望意外何物もないという態度。日本という国にハッピー・デイズが訪れるのは「出合い頭」意外に期待はできない。いや、「出合い頭」だからいっこうにやってこない。やって来ても「出合い頭」は実に痛そうだ。どちらにしても良いことは全くありそうにない。目をつぶって静観できない筆者の面目躍如の政治評論である。 今、政治を語ると最も鋭く面白い筆者の最新エッセイ集。昨年2000年度、1年間の収穫である。
| 2001年07月16日(月) |
辻仁成「そこに僕はいた」を読み始める。 |
辻仁成「そこに僕はいた」(新潮文庫)は筆者の十代の記録である。正統的過ぎるというか伝統的というか革新的なところは全くない。意外にまともな「青春エッセイ」といった感じ。筆者の文学的素養がすべてに反映されていて、新奇なことや独創に満ちたことはゼロ。確かにそうだなと感心する反面、筆者ならではの視点がなく、その意味で期待外れである。しかし物珍しさはいらない、まっとうな落ち着いて読めるエッセイ集を求める向きには良質のエッセイ集として薦められる。 「おく手でかつ、ひねくれ者の恋の行方」「砂糖菓子の中身」「僕は彼らのことを憶えている」「Xへの手紙」全18編。好みの題名を選んで好きなところから読むのが良い。なかなかいいエッセイ集である。
| 2001年07月15日(日) |
正統的ホラー「タイタス・クロウの事件簿」を半分読んだ。 |
ブライアン・ラムレイ「タイタス・クロウの事件簿」を半分まで 東京創元社の創元推理文庫の一冊。ラヴクラフトの後継者登場はいいが、邪神対名探偵とかオカルト探偵小説、オカルト・ミステリなどと宣伝してはいけない。近代的ホラーの決定版である。赤ん坊のとき偶然にも霊液の混入した聖水を浴びたことが後のタイタス・クロウの運命を決めたという短編「誕生」己の運命、またはなすべきことに気づくきっかけとなった妖怪紳士との対決を描いた中編「妖蛆の王」の二つを読んだ。じっくりと読むに値するイギリス発の伝統的ホラーは、読みごたえ十分である。 巻末で紹介されているタイタス・クロウもの長編6作品も早く出してほしい。 全く関係ないが、創元推理文庫には他社の文庫では感じない不思議な魅力がある。昔から長く買ったり、買わなかったりを繰り返してきたからだろう。
| 2001年07月14日(土) |
恩田陸「ライオンハート」は情熱的構成。 |
この話は古本屋に合う。恩田陸の「ライオンハート」(新潮社)。時空と肉体を超えた純粋な魂の放浪のラブ・ストーリー。 この作者もどんな陳腐な話も心躍るような魅力的な物語に変える錬金術師だ。かつてアガサ・クリスティについてもそう思っていたことがある。犯人探しの話でなくてもその語り口と登場人物の存在感で十分に楽しめた。ロバート・ネイサンの「ジェニーの肖像」フィリパ・ピアスの「トムは真夜中の庭で」を思い出したが、「ライオンハート」はより複雑でいいとこどり総集編というおもむき。構成的にも視覚的にもより洗練されたおしゃれな物語である。 構成の点では、結末のつけ方は「トムは真夜中の庭で」を連想させる。さらにさだかではないが福永武彦の「風土」あるいは「海市」もしかしたら「忘却の河」のいずれかと共通しているようなのだが。
| 2001年07月13日(金) |
川端康成の掌編「バッタと鈴虫」のこと |
川端康成の掌編「バッタと鈴虫」は忘れがたい魅力を持っている。旧帝大、旧制高校界隈の描写から始まって鈴虫取りの子供達を見ながらの独白で終わるのだが、語り手の急激とも思える想像力が思いもかけない展開を見せる。語り手の、または作者の得て勝手な思い込みの押し付けが過ぎるとも受け取れるが、二十人におよぶ子供たちが集まって一緒に虫取りをする夕暮れの景色は今となっては懐かしい景色である。「掌の小説」中の一編。
| 2001年07月12日(木) |
江國香織「デューク」は三回読んだ。 |
江國香織「デューク」(「つめたいよるに」中の1編)を読んだ。古本屋は出て来ない。出てくるのは、涙、犬、ジェームス・ディーン、キス、男の子、電車、クリスマス、十二月の街、オムレツ、プール、アイスクリーム、地下鉄、銀座、小さな美術館、落語、大通り、横断歩道など。そして、デューク。自分が大のつく甘ちゃんであることがわかった。犬を飼っているからなおさら、か。
| 2001年07月11日(水) |
山本周五郎を読んだわけではなくて |
山本周五郎の本が新古書店にまったくないときがあった。あるとしたら主に新潮文庫と思って当然どこにでもあるの気楽さを裏切ってぜんぜん出まわっていなかったのだ。2、3件探してがっかりした記憶がある。最近は山本周五郎を置いていないところのほうが珍しい。しかし、こちらの熱は既に冷めている。一方で鳥山明イラスト表紙文庫版の「ファーブル昆虫記」が全巻、鮎川哲也編集長の「本格推理」もほとんど揃っていたりで目を離せない状況もありで、普通の本屋さんよりも面白いことは確かだ。誰かが書いていた(誰か思い出せない)が、すべての棚の本を端から端まで点検するのはブックオフなどだけである。値段が安いからだろうか。100円(時には50円)から定価の半額又は定価の7掛け程度までの範囲で興味・関心・好奇心が大きく発動される。不思議なのは無料といってもよい(無料)図書館ではこころはさほど大きくは動かないことだ。
| 2001年07月10日(火) |
宮部みゆき「模倣犯」のこと |
宮部みゆき「模倣犯」(小学館)これは何日か前に読んだ本。小野不由美の「屍鬼」を思い出す。内容も厚さも。この作者は巧みだ。いわゆるページターナーとは違うが、文章の端々に読み手が気になる表現や言葉を置いて退屈させない。1ページ一ページの文字数は決して少なくないが興味を持って先に先に読み進む仕掛けが多い。心地よい読み方ができるようになっているのだ。冒頭すぐに登場の少年が後になってもその日の細部まで覚えている、その理由や意味ありげな犬の描写など読み手を引きつけて話さない工夫が惜しみなく使われている。全編、伏線の嵐で、その嵐に翻弄されることを楽しむしかない。そんな娯楽超大作である。
| 2001年07月09日(月) |
「少年計数機」を読了。 |
石田衣良「少年計数機(池袋ウエストゲートパーク�供法廖癖檎砂媾�)を読み終えた。「妖精の庭」「少年計数機」「銀十字」「水のなかの目」の連作短編集。はじめの三つは六十頁程度で最後の書き下ろし「水のなかの目」のみが百三十頁の中編とやや長い。語り口のうまさと先のわからなさでぐっと引きつける。結構悲惨な話も手口によっては爽快なヒーロー物になることを証明。現代日本の都会の冒険物。あるいは少年探偵団物として傑作。
新潮文庫の「掘り出し物」で永井龍男の「青梅雨」を発見。即、購入。現代の短編小説の名手、浅田次郎が推薦するまでもないと思う。全13編。自分の読書傾向から考えると実際に読み出すまで相当の時間が過ぎるだろう。
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