読書日記

2001年12月31日(月) 柴田よしき「紫のアリス」(文春文庫2000.11.10)を読んだ。中井じゅん「母娘練習曲」(ハルキ文庫2001.1.18)を34ページまで。

柴田よしき「紫のアリス」(文春文庫2000.11.10)を読んだ。題名の通り「不思議の国のアリス」のアリスのように主人公が不思議な事態に巻き込まれ、殺されそうにさえなる。そして、その主人公は中学生時代の学校祭でアリスを演じていた。
ルイス・キャロルの創造した「アリス」の世界のイメージが過去と現在の事件をつないで主人公を追い詰めていく。優しくしてくれる親切な人々と知り合いになりそのおかげで事態が好転するかと思いきや彼女は時間の渦に閉じ込められたかのごとく最悪の方向へ導かれる。
最後の一ページまで少しも気の抜けないサイコ・サスペンス的ミステリーである。一気に読めたが物凄く面白いというには微妙な結末である。「保留」としておこう。読む前に明るく軽快なミステリーと勝手に思い込んだせいもある。
よく考えてみるとこの作者は一筋縄ではいかない小説家だったのだ。こちらの期待するような安易な物語を作るわけがなかった。
とりあえず勝手ながら、準・佳作としておこう。
中井じゅん「母娘練習曲」(ハルキ文庫2001.1.18)を34ページまで。「紫のアリス」よりも読み出したらやめられなくなる「エビセン」本である。そう感じて早々に読むのをやめた。「ちゅらさん」本と名付けても良い。はまったら大変だ。そんな達者な感じの面白くないわけがない本と見た。
「似ている!」である。



2001年12月30日(日) 芦辺拓「時の誘拐」(立風書房1996.9)を読んだ。谷沢永一「紙つぶて(完全版)」(

芦辺拓「時の誘拐」(立風書房1996.9)を読んだ。トリック重視の普通の本格ミステリーなのだろうと読み進むうちにそれが速断または偏見だったことに気がついた。トリック重視だけではない大きな特色に気がつかざるを得なくなった。作者は大きな冒険を二つしている。一つは、謎の部分の工夫である。それこそトリックに関わっている。現代的な道具、地理的なもの、時間的な結びつき、人間関係、人間の生き方などをモザイクのように配置している。二つ目は、作者の哲学に関わる部分である。部分といってはまずいかもしれない。作者の哲学なり考え方が語りや登場人物に託された形で物語世界を特徴あるものにしている。小説だからそれはあくまでも物語の語り手や森江春策の思想にすぎないという考え方も正論だとは思うが、これだけ色濃く現れていると作者になぞらえてしまうのだ。
そういう意味で骨太且つ重厚な本格ミステリー小説として重要な作品である。
おまけ。犬が登場する小説としても買いである。(ただし出番は少ないのが惜しい)
吉田健一の名前からの連想で、谷沢永一「紙つぶて(完全版)」(PHP文庫1999.3)を久しぶりに手にとった。1970年代から1980年代中盤ころまで本や読書についての本や文章が特によく好まれ読まれていたような気がする。個人的には丸谷才一の「梨のつぶて」(晶文社)が始まりで、終わりは篠田一士の死去である。吉田健一は英国文学の名翻訳者としてだけでなく個性的な名文家、読み巧者、さらに奇妙な幽霊話作家としても注目を浴びていた。(ような記憶がある。だいぶ忘れてきているのであしからず。朝日新聞の文芸時評もしたかもしれない。集英社文庫にもあったし、その集英社から「吉田健一著作集」も出した。)谷沢永一の「紙つぶて」も吉田健一の書評もそういう時期に集中的に読んだものだ。今出回っているもので面白いなと思うのは「ミステリマガジン」の都築道夫さんの文章くらいか。継続的量的には「本の雑誌」の北上次郎さんの文章を一番読んでいることになる。かつて「小説推理」を定期講読していたことがあるのも北上次郎の連載があったからである。(今は買っていない。)
書評の文章に熱気がありそれがなんともいえず面白かった時があったのだ。




2001年12月29日(土) 津村巧「ドゥームズデイ(審判の夜)」(講談社ノベルス)を一気に読了。

津村巧「ドゥームズデイ(審判の夜)」(講談社ノベルス)を一気に読了。殺戮につぐ殺戮の物語。圧倒的に優位な立場からの一方的な皆殺しゲームの物語。結末までにはじめの予想を軽く越える数の死亡者が出る。こんな殺伐たる小説を好んで読む者がいるのだろうか、と読みながら考えるくらい救いのない雰囲気がある。
そんな話をやめることができなかったのはひとえにその筆力とこちらの結末のつけ方への期待による。
じっくりと味わうような描写や思想はほとんどない。むしろ漫画の原作にした方がよかったと思うくらい。
しかし、語る情熱を感じた。それが500ページを一気に読ませたような気がする。
結末は予想を越えるものではなく、やや期待外れだった。
それにしても最初の十数ページは、最近はこういう話にはなれっこになっているとしても決して心地よいものではない。
この作者には今度はもっと違う、たとえば「青春」ものとか、SFならば「時間」ものとか殺人の出てこない熱気あふれる物語をかいてほしい。
昨日、購入した本は二冊でロバート・A・ハインラインの作品。
「宇宙の呼び声」(森下弓子=訳)創元推理文庫1990.8
「栄光の星のもとに」(鎌田三平=訳)創元推理文庫1994.9



2001年12月28日(金) 横山秀夫「陰の季節」を読んだ。

横山秀夫「陰の季節」を読んだ。短編集の表題作、70ページほどの長さで第5回松本清張賞受賞作とある。春も間近、人事異動に多くの人々が悩み苦しむ季節に警察内部でも定年退職者の天下り先の件で手間のかかる問題が起きた。三年たったら後任に空ける約束で天下った元警官が辞任を拒否してきたのだ。泡を食った幹部たちは人事担当の核とも言うべき人物に事情を探らせ説得しようとする。やがて未解決の事件との関わりが浮かび上がってる。
展開は謎が謎を呼ぶ式で興味が最後まで持続し、思いがけない結末まで一気に引っ張られた。その点では凄腕の作者である。
しかし、その過去の事件がすべて同一犯の仕業というのが説得力がないし、追う者と終われる者の出会いがあまりにも都合がよすぎて不自然である。
ひとつのほら話としては面白いが冷静に考えると納得できなかった。
今日もまたビデオで映画。
「ジュヴナイル」テトラという小型ロボットと小学生の子供たちとの交流と冒険を描いたSF映画である。地球を侵略する宇宙人。ワームホールを利用したタイムマシーン。藤子不二雄に捧げるという言葉が最後のスクロールの中にあったので二人のSF漫画を思い出した。結末はちゃんと作ってあるので日本のSF映画としては珍しく心地よく見終わることができた。



2001年12月27日(木) 恩田陸「出雲夜想曲」とジョン・クロウリー「ナイチンゲールは夜に歌う」を読んだ。

 恩田陸「出雲夜想曲」とジョン・クロウリー「ナイチンゲールは夜に歌う」を読んだ。両方とも短編で「出雲夜想曲」は「三月は深き紅の淵を」の第二章、「ナイチンゲールは夜に歌う」は同題の短編集の冒頭に置かれたもの。
「出雲夜想曲」は二人の女性編集者が「三月は深き紅の淵を」の作者を捜しに出雲に出かけて行く物語である。その旅の言い出しっぺの堂垣隆子は三十代、誘われて一緒に行く江藤朱音は四十代という設定だが、夜汽車の中での作者についての純朴かつ乙女チックな会話が延々と続きこちらをにやりとさせてくれる。終りの場面の重いイメージと意表を衝く返し技が印象的だった。
第一章同様、小泉八雲を思わせる謎の人物が主人公の女性の近くに登場する。
恩田陸は日本のエリナー・ファージョンである。その物語は成人のための「童話」というおもむきもある。もちろん小学校高学年の子供や中学生が読んでも面白く読める。一般向けに普通に書いた作品が児童文学や童話になっていても何の不思議もない。思い切ってファージョンのような児童のための作品を書いてみたら物凄い傑作になった、もあり得るのではないか。
「ナイチンゲールは夜に歌う」はメルヘン的な読みやすい作品。神が「人間」を思いついたばっかりに世の中が汚れてゆき、取り返しのつかない事態に陥る。
今日はビデオを見た。
「スペース・トラベラーズ」はあの映画版「踊る大捜査線」と同じ監督ということで期待し、ラストの寸前までは比較的面白かった。しかし、「明日に向かって撃て!」を真似したようなラストには不満。テロリスト役の渡辺謙が大勢に紛れて逃げた場面の後からぐっと平凡になり意哀しい終わり方には不満。全員無事に逃走させるという一種のコン・ゲーム的展開を考える関係者がいなかったのだろうか。快作(怪作)になり損ねた、もったいない映画だった。



2001年12月26日(水) 「文藝別冊追悼特集山田風太郎」と芦辺拓「時の密室」を手にとったが、全く読めず、残念。

「文藝別冊追悼特集山田風太郎」と芦辺拓「時の密室」を手にとったが、全く読めず、残念。
今日は野暮用の最たる日で今午前零時になるところだが、その用が終わっていないので日記もゆっくり書いていられない。
山田風太郎の「開化の忍者」は題名からそそる面白そうな短編。すぐにでも読みたいが。今漠然と読みたいと考えている本は次の通り。
恩田陸「ドミノ」(角川書店)
大野晋「日本語と私」(朝日新聞社)
ディーン・クーンツ「奇妙な道」(扶桑社文庫)
逢坂剛「重蔵始末」(講談社)
今日はここで。



2001年12月25日(火) 恩田陸「三月は深き紅の淵を」の第一章読了、中坊公平「罪なくして罰せず」(朝日文庫)を読み始めた。

恩田陸「三月は深き紅の淵を」の第一章読了、中坊公平「罪なくして罰せず」(朝日文庫)を読み始めた。
「三月は深き紅の淵を」の第一章は「待っている人々」(117ページまで)を読み終えた。履歴書の趣味欄に「読書」と記入したということだけで会社の会長の屋敷に招待された若手社員鮫島巧一を待っていたのは限定自費出版本「三月は深き紅の淵を」をめぐるミステリーだった。一冊の本についての喜劇的状況に投げ込まれた鮫島は待っている人々の期待に応えて謎を解明する。物語の体裁を借りた読書論、読者論、文化論ともいえるが作者の饒舌はなめらかである。
今日はJRに乗らねばならない羽目になったので車中読む本として丁度良い大きさと厚さのものを選んだ。中坊公平「罪なくして罰せず」にした。行き帰りで76ページまで進んだ。記者や新聞の衰弱のことなどに始まり筆者の意見が冴え渡り、またそれらがいちいち得心がゆく。予想以上の迫力ある「意見の書」である。今まで筆者についてはテレビを通しての知識やイメージしか持っていなかった。今回はこの著書によってその独自性や正義感、信念などをはっきり知ることができるにちがいない。本との「出会い」を感じた。



2001年12月24日(月) 私的今年のベスト20(今年は「デルフィニア戦記」と時代小説の年だった。)

私的今年のベスト20(今年は「デルフィニア戦記」と時代小説の年だった。)
茅田砂胡の「デルフィニア戦記」は「本の雑誌」の企画によってその存在を明確に知り、全15冊でちょっとした読書の旅を経験した。その原型とも言うべき「王女グリンダ」は未読のままとってある。その昔、田中芳樹の「銀河英雄伝説」を毎年楽しみにしていたことを思い出したり、さらにその昔のトールキンの「指輪物語」との思い出も蘇えったりで、完結して「しまった」ことが今でも残念である。続編をというありえない期待あり。
そして、佐伯泰英の時代小説との出会いは鮮烈だった。読むに値するのは隆慶一郎と池波正太郎の二人だけという思い込みを見事に解放してくれた。知った時には既に相当の売れっ子で自分だけの作家というわけにはいかなかったのが悔しかった。読むものすべてが傑作と感じられ楽しかった。
下の作品だけでは20作品にはならない分は上の二人の作品の分である。
また、この並び方は読んだ順番である。
「GO」金城一紀(講談社)
「コフィン・ダンサー」ジェフリー・ディヴァー(文藝春秋)訳=池田真紀子
「汝ふたたび故郷へ帰れず(リバイバル版)飯嶋和一(小学館)
「天下騒乱(上・下)」池宮彰一郎(角川書店)
「だれが「本」を殺すのか」佐野眞一(プレジデント社)
「ゼームス坂から幽霊坂」吉村達也(双葉社)
「模倣犯(上・下)」宮部みゆき(小学館)
「牙の領域(フルコンタクト・ゲーム)」中島望(講談社)
「クリスマスのフロスト」ウィングフィールド(東京創元社)
「フロスト日和」ウィングフィールド(東京創元社)
「始祖鳥記」飯嶋和一(小学館)
「宮崎駿の<世界>」切通理作(筑摩書房)
「ほぼ日刊イトイ新聞の本」糸井重里(講談社)
「秘伝・宮本武蔵(上・下)」光瀬龍(徳間書店文庫)
「江戸忍法帖」山田風太郎(講談社)
「銀の雨」宇江佐真理(幻冬舎)
「黄金」ディック・フランシス(ハヤカワ・ミステリ文庫)

ビデオで映画を見た。「サトラレ」主演は安藤政信。2時間を超える長さ。現代の癒し系ファンタジーとでも呼べそうなワン・アイデア徹底的貫徹作品で好感。外国映画を見ているようだった、はほめ言葉になるか。3時間ほどゆとりがあるときに是非「どうぞ」と薦めたい。



2001年12月23日(日) 「明治九年の謀略」(舞岡淳)「アンドロイド殺し」(二階堂黎人)「三月は深き紅の淵を」(恩田陸)を少しずつ読んでみる。

「明治九年の謀略」(舞岡淳)「アンドロイド殺し」(二階堂黎人)「三月は深き紅の淵を」(恩田陸)を少しずつ読んでみる。
最近は読書にこれといった目標がなくなっているのせいかこんな読み方をして結局どれも読了せず、が多い。根気がなくなっている。
「明治九年の謀略」(光文社カッパノベルス)はわずか六ページ。題名の通りの時代にしても会話が辞典のように固い。しかし、雰囲気は期待できそう。
「アンドロイド殺し」は「少女の空間」(徳間デュアル文庫)の一編。三分の一ほど読んだ。「アクロイド殺し」のパロディというより「スタートレック」のそれらしい。
「三月は深き紅の淵を」(講談社文庫)は単行本時に一度読んでいる。50ページほど読み進むも新鮮である。また記憶がない。今日、本屋さんでこの作者の大部の新刊のタイトルを見てこの「三月」を思い出した。まず「三月」を読んで記憶を新たにしてからでないとあの新刊は読むべきでないような気がした。「三月」の中で言及されている本が新刊の本にちがいないと考えた。
いざ読んでみると楽しくすいすい読める。小説の形をとったエッセイのごとくで、ディック・フランシスは人間を語ったが、恩田陸は物事を語って面白い。特にこの小説は長編評論随筆というおもむきで文化論的である。暫くこの作品を読むことにする。
今日は本の雑誌社の「おすすめ文庫王国」を買いに本屋さんに出かけた。しかるに、まだ店頭に出ていなくてがっかり。
手ぶらでは帰れず次のような買い物になった。
恩田陸「三月は深き紅の淵を」(講談社文庫)
デュアル文庫編集部編「少女の空間」(徳間デュアル文庫)
山田風太郎「黒衣の聖母」(ハルキ文庫)
町田康「夫婦茶碗」(新潮文庫)
ニコラス・ブレイク「死の殻」(創元推理文庫)



2001年12月22日(土) 「黄金」読了。語り手の観察力や洞察力に基づく

「黄金」読了。語り手の観察力や洞察力に基づく一見謙虚に見える痛烈な言葉が魅力である。犯人を罠にかける点では独創性はないが、犯人の動機や過去への遡及性で「驚き」を用意している点で創造的な物語である。
競馬シリーズの最上の部類に入る読みごたえのある作品だった。最近遠ざかっていたことを反省した。
ディック・フランシス(訳=菊池光)「黄金 HOT MONEY」(ハヤカワ・ミステリ文庫1993.10)
今月も世間よりも1週間ほど遅れて書店から届いた「本の雑誌2002.1」(本の雑誌が選ぶ2001年度ベスト10)をまた拾い読み。
ベスト10の中で読んだのは「25時」一冊。この作品を高く評価している北上次郎の「このラストのどこがいけないのか」(80ページ)が注目。結末が夢想なのか現実なのかどちらにしても眠たい頭を醒ますほどインパクトのあるものだった。どちらでもいいのかもしれないが、題名が「自由な時間」を象徴するならあれはさりげなく「現実」ととって主人公の「自由」な「その後」をめでて豊かな気分になる道もある。



2001年12月21日(金) まだディック・フランシスの「黄金」を読んでいる。

まだディック・フランシスの「黄金」を読んでいる。犯人探しがこれ以降のメインになると思いきやイアンとマルカムはぞっとするような思いをする。イアンの慎重さが死を回避した。マルカムの屋敷に戻って泊まっていたら二人の命はなかった。誰かが時限爆弾を仕掛けていたのだ。
イアンの犯人探しは命懸けになっていく。家族の誰かの仕業なのか、違うのか。
今日は317ページまで達した。十分面白い。
ここまできたら一気に駆け抜けたいものだが、野暮用で中断した。
ビデオの映画「五条霊戦記」の続きを見た。最後の永遠に続きそうな二人の決闘は迫力と工夫があって良かったが、全体としてはこちらを欲求不満にする出来。テンポとリズムがはずれぱなっし。



2001年12月20日(木) ディック・フランシスの「黄金」は今日も面白いパート2。試しにアリサ・クレイグの「呑めや歌えや」も。

ディック・フランシスの「黄金」は今日も面白いパート2。今日は218ページまで読んだ。主要な人物たちの登場と紹介が終わって気がつくと半ば近く。全く長さを感じさせないまま来て、今度は犯人探しへ針が向く。
一度読んだにも関わらず全然覚えていない。
面白かった記憶しか残らないから「読書日記」の意義があるわけだ。
試しにアリサ・クレイグの「呑めや歌えや」(創元推理文庫)という不思議ユーモアのミステリを読んでみた。ヒロインのジェネットが突然わけのわからぬ惨事に巻き込まれる場面からのスタートで、相棒の夫マドックが登場する約30ページまで一気に読ませる。
試しにというのは「黄金」があまりにも楽しいので自分が何を読んでも楽しめる状態に陥っているかどうか調査するためにということ。
結果、どうもそういうハイな読書人状態になっているようである。



2001年12月19日(水) ディック・フランシスの「黄金」は今日も面白い。

ディック・フランシスの「黄金」は今日も面白い。142ページまで面白さは一定に維持されている。交通事故で脳障害になった義理の兄弟ロビンのことで主人公のイアンと父親マルカムが親子の絆・信頼を回復する場面はさりげなく秀逸である。
マルカムが5回結婚したせいで生まれた義理の家族が次から次へと登場してイアンを閉口させる一連の場面もいわば人間喜劇的で傑作だが、語り手でもあるイアンの秀でた人間観察力・洞察力が何よりも楽しい。これほど人に対する批評や判断が的を射ている人物に共感できれば面白くないわけがない。
危機一髪というシーンはまだ自動車に襲われた時だけなのに、禁欲的な感じのイアンの内面の語りや財産分与目当ての義理の姉や兄などの襲来によって十分サスペンスが醸し出されている。
ディック・フランシスはやはり語りの名手である。
二十年以上も前から読んでいるのにまだ面白く読めるのはこちらが進歩していないからだろうか。それともあちらが進歩し続けているからだろうか。



2001年12月18日(火) ディック・フランシス作菊池光訳「黄金」(早川書房)はやはり面白い。

ディック・フランシス作菊池光訳「黄金」(早川書房)はやはり面白い。1993年の文庫版(ハヤカワ・ミステリ文庫)がこれなので一度目はその何年か前の単行本で読んだことになる。その時に大いに面白かったので文庫版になった時に一種の懐かしさから購入した。一度読んだものをもう一度、ということにはなかなかならない。で、2001年の末になった。10冊ほど積み上げた中ほどにはさまったままいつからそうなっていたかわからないぐらいの日々が過ぎた今日なぜか抜き出して手にとった。今日は「ゼノサイド」の続きを読むはずだった。
面白い本は野暮用を蹴飛ばす。教師の目を気にしながら机の下に隠して本を読む学生のように野暮用を意識しながらも読むのをやめるのは難しかった。
結局、一気に76ページ読んでしまった。
本当に面白い本は言い訳を許さない。浮気をさせない。
久しぶりに読み始めた「黄金」は時間を忘れさせた。
現実離れした大金持ちの父親とアマチュアの騎手をしている息子(主人公)がかつて断裂した親子の信頼関係を修復していくというのが物語の核だが、普通小説ではないのでスリルとサスペンスで存分に味付けされている。例によって主人公の一人称による語りが読み手を物語に引き込んでいく。この洒落た感じでやや思索的なおもむきの語り口は妙にこちらの気持ちをくすぐる。
「私は父の五番目の妻を心底から嫌っていたが、殺すことを考えるほどではなかった。」これは一番最初の文章。ディック・フランシスは冒頭から核心に入るのだ。相当きざな書き出しである。
しかし、読み手は変なところで興味関心を抱く。かつては犬を飼っていなかったので「ペンブロゥク」という主人公の名字には何の感興も湧かなかった。しかし、今は、違う。ウエルッシュ・コーギー・ペンブロゥクを連想して何かしらうれしくなる。「犬」と書いてあるだけでも気がひかれるのと同じだ。
そんなこんなで小一時間読み続けた。反動はその後来た。
まあいいか、という感じである。



2001年12月17日(月) ブラックウッド「いにしえの魔術」とカード「ゼノサイド(上)」を少しずつ。

ブラックウッド「いにしえの魔術」とカード「ゼノサイド(上)」を少しずつ。
前者は角川ホラー文庫版「妖怪博士ジョン・サイレンス」(紀田順一郎・桂千穂=訳)の第一編目の短編。降りるべきでない駅・町に降り立った人間がそこで体験する興味深い出来事を主題にする物語の原型に近い、有名な作品である。詩人・萩原朔太郎の小説「猫町」を始めとしてこのタイプの物語は結構ある。最近フィクションらしいフィクションを読んでいないので一種の禁断症状が出て、この古い時代のフィクションを手にした。ほんのちょっと読んだだけで満足できるほど意味ありげな謎の物語でその味わいを堪能した。
後者はあのオースン・スコット・カードの旧作である。長編エンダー・シリーズの確か三作目にあたる。七年前に出ていたものを最近後続の「エンダーズ・シャドウ」「エンダーノ子どもたち」と溜まったので読み始めることにした。三十八ページまで読んだ。地味な雰囲気のSFである。最初に出てくる夫婦は片方がすぐに死亡し、次の夫婦は自分たちを犠牲にしてある惑星を救おうとしている。夫と妻の会話が主に物語は間接的に進んでいくような雰囲気がある。カードも宮部みゆきと同じく語りで読ませる。
佐伯泰英の新作が二冊になった。「妖怪狩り」「熱風」である。もう少し溜めて一気に読みたい。
ビデオで映画「五条霊戦記」を五十分間ほど見た。音は大きいが声が聞き取りにくい。



2001年12月16日(日) 「このミステリーがすごい!2002年版」を見る。

「このミステリーがすごい!2002年版」を見る。いつも興味津々で眺めるのだが、今回は読んだことのある本が少ない、いやほとんどない。
国内編・海外編を合わせても4作品のみ。
それは「模倣犯」「R.P.G.」「忍法創世記」「25時」である。
しかし、「忍法創世記」と「25時」はミステリーなのだろうか。「忍法創世記」がいいのなら時代劇の捕物帳もいいのではないか。よくないか。かつて隆慶一郎の作品がランキングしたこともあったが、この二人は例外なのである。そういえば宮部みゆきの時代小説がランク入りしたことがあった??
毎年折に触れて拾い読みする必携の本である。
「本の雑誌おすすめ文庫王国」の発売はまだのようだった。



2001年12月15日(土) 佐野眞一「渋沢家三代」(文春新書)「エアーバディ」

佐野眞一「渋沢家三代」(文春新書)を20ページほど読み、224ページになる。渋沢栄一の死と孫の敬三の成長が語られる。敬三が作ったという「屋根裏部屋博物館」が興味深い。
今日は家族と「エアーバディ」というゴールデン・レトリバー主演の映画(ビデオ・レンタル)を楽しんだのでまた読めず。
最近はテレビを熱中して見た後は活字を見るのが辛いので今日はここまで。



2001年12月14日(金) 小林信彦「テレビの黄金時代」「ダ・ヴィンチ」「奇跡的なカタルシス」など。

小林信彦「テレビの黄金時代」(第十三回萩本欽一の輝ける日々)をひさしぶりに読む。これは月刊雑誌「文藝春秋」連載中の新年号分である。たまにしか読まない雑誌をたまたま手にして開いたら、そういえば小林信彦の連載が始まっていたのだ、と思い出したのだ。
筆者がかつて萩本欽一の名前を出さずに書いたモデル小説とほとんど同じ部分もあり、懐かしく読んだ。そういえば「テレビの黄金時代」というような題名の主にクレージー・キャッツを扱った増刊号的本もあったはず。
完成した暁には小林信彦の一側面の集大成というべき重要な本になるに違いない。
「文藝春秋」のバックナンバーを探す誘惑に駆られている。
ついでに「ダ・ヴィンチ」の最新号も覗いてみた。ブック・オブ・ザ・イヤー2001、今年一番支持された本はこれ!などと言っている。「支持された」はもしかして「指示された」の間違いではないか、と思うほど何か画一的な匂いがして嫌な感じ。
もっとも「文藝春秋」も似たりよったり、かという思いもある。
村上龍「奇跡的なカタルシス(フィジカル・インテンシティ�供法廖文�文社)を気まぐれに拾い読み。「あのブラジル対アルゼンチンのようなゲームを解説する文脈を私たち日本人が持っていない」(153ページ)
小林信彦の文章を楽しんで読む世代は年々限られてくる、そんなことを連想した。 



2001年12月13日(木) 林望「不渡り小切手」(「リンボウ先生遠めがね」文春文庫所収)、二階堂黎人「奇跡島の不思議」(角川文庫)の冒頭を読む。

林望「不渡り小切手」(「リンボウ先生遠めがね」文春文庫所収)、二階堂黎人「奇跡島の不思議」(角川文庫)の冒頭を読む。
林望のエッセイはイギリスでの体験談でイギリスの銀行との付き合い方を、その忍耐力の必要性を一流の語り口で紹介したもの。文庫本で約11ページは短いか長いかわからぬがじっくりと味わいたい気にさせる隙のない文章である。
二階堂黎人は、今注目している作家である。大長編ばかりなのでためらっている時間が長くなっていく。どこかで再挑戦したい魅惑の作家である。
700ページ近い文庫本のうちプロローグ部30ページまで読んでみた。少女コミックのような内容は主な登場人物の紹介だった。全く現実的でない浮世離れした若者たちに悪意に満ちた事件が襲いかかることを予感させる冒頭である。
しかし、この続きを明日読むかどうかは怪しい。



2001年12月12日(水) 白峰良介「逃げる車」を読む。これは「有栖川有栖の本格ミステリ・ライブラリー」(角川文庫)中の一編である。

 白峰良介「逃げる車」を読む。これは「有栖川有栖の本格ミステリ・ライブラリー」(角川文庫)中の一編である。「命の次に大事な車」というセリフが出てくるが、これは「命よりも大事な車」の間違いではないか。「車よりも大事な命」が危機に合ったら、多少車が破損しても気にならない。だから・・・というのはいささかユーモア・ミステリの部類である。「異様なまでに論理的」と言うのはどうか。しかし、追跡シーンから一転しての死体発見シーンへの展開はサスペンスがあって謎解きよりも魅力的だった。
今日も大雪。さすがの鉄道が一時ダイヤなしで走っていたそうだ。夕方は白い霧がたちこめて異国的な雰囲気も漂った。
相変わらず、本が読めない。もう少しの辛抱である。



2001年12月11日(火) 「漢字の本6年生(下村式)」と網野善彦「日本社会の歴史(下)」の途中を眺めた。

「漢字の本6年生(下村式)」(偕成社)の人偏の部を読み始めて「仁」「仲」「供」「俗」「俳」と止まらなくなった。「俳」の解説で「人前で身ぶりおもしろくたわむれるのは、ふつうではない。それなのに、それを仕事にしている人のことで<役者・俳優>の意味になった。」とあった。「ふつうではない」が解説の核になっているのだ。ほんとうだろうか。
網野善彦「日本社会の歴史(下)」の途中を眺めた。「第十章 地域小国家の分立と抗争」十五世紀の日本を抑えていた室町幕府の支配力を失っていき、諸地域に独自の地域勢力が台頭し始めるというところまで読んだ。読みたかった十六、七世紀の歴史の前段を簡単に見た感じである。
昨日からの集中豪雨ならぬ集中豪雪で普段コマーシャルで威張っている鉄道会社の列車も不通になった。こんな極端な降雪は珍しい。風景が一瞬で北国の街に変わった。ゆきすぎの雪である。雪といえば、ポール・ギャリコの「雪のひとひら」だが・・・



2001年12月10日(月) 辺見庸「反逆する風景」を少し齧る。

辺見庸「反逆する風景」を少し齧る。ほんのわずか24ページまで読んだ。「考えられるありとあらゆる意味という意味を無残に裏切る。」「風景は、なぜなら、往々解釈と意味を超える、腸のよじれるほどのおもしろさを秘めているからだ。」
そんな解釈することを無意味と感じさせるような、それまでの経過と全く脈絡のない風景のいくつかを筆者の体験として紹介している。
中国において機密情報者の名を明かせと筆者にしつこく迫っていた役人が突然、二歳になる息子の写真を取り出して筆者に見せるという思いがけない場面。
筆者たち二人しか存在しないような静寂に満ちた夜中だったのが、公安の役人たちがそこここから突然大勢出現して繁華街のような風景になってしまったこと。
また、自転車遅漕競争において十四、五人の競技者たちが全員同時に静止した一瞬の場面。
明解な文章で語る面白話の数々というおもむきがあってついのめり込んでしまった。



2001年12月09日(日) 今日もたまたまつけていた二十四年前の読書日記からの転記。

丸谷才一「星めがね」「年の残り」パトリシア・モイーズ「死人はスキーをしない」シャルル・エクスブライヤ「死体をどうぞ」見坊豪紀「言葉の海をゆく」シムノン「メグレと無愛想な刑事」戸板康二「グリーン車の子供」エド・マクベイン「八千万の眼」ヒラリー・ウォー「事件当夜は雨」藤子不二雄「二人で少年漫画ばかり描いてきた」井上ひさし「ブラウン監獄の四季」上田秋成「雨月物語(現代語訳=石川淳)」鮎川哲也「太古叩きはなぜ笑う(三番館シリーズ1)」山田風太郎「魔天忍法帖」「剣鬼喇麻仏」ここが我慢のしどころ。こんな日が続くと日記をつけるのをやめたくなる。野暮用が重なるとこうなるので、旅に出ているわけでもなくこうなるので、やめたくなる。書くネタがなくなるまで。
今日もたまたまつけていた二十四年前の読書日記からの転記。
興味関心、読書傾向があまり変わっていないのがわかる。内容を忘れていることも自分でわかる。
思い出したのは、あの頃は買った本はだいたい読んでいたこと。



2001年12月08日(土) 読めないときには風変わりなエッセイを。板東眞砂子「身辺怪記」(角川文庫)

読めないときには風変わりなエッセイを。板東眞砂子「身辺怪記」(角川文庫)に手を出す。「本の雑誌」などで評判になった「死国」が本屋を何件か回っても見つからなかった昔がなつかしい板東眞砂子のエッセイ集である。表題作の「身辺怪記」から「村社会のエキゾチシズム」「台風銀座育ち」「方言の壁は文化の砦」「死者の書」「妖精の悪戯」「古都の魔力」まで七編読んだ。確かに子供のときは台風や猛吹雪の真っ只中に出て行って妙な嬉しさや興奮を覚えたものだった。普段見たことのない大嵐の威力を実感して何かしら楽しく仕方がなかった記憶は今でも残っている。あの感じは一種のセンス・オブ・ワンダーだったか。三つ目のエッセイ「台風銀座育ち」を読みながらそんなことを考えた。本のタイトルは風変わりだが中身は現・作家としての自分のルーツをたどるようなしっかりした文集であった。最近のエッセイ集からはちょっと飛んでる印象を受けた。題名とは異なり、これは正調エッセイ集である。



2001年12月07日(金) 私が24年前に読んでいた本。奥田継夫「夏時間サマータイム」ディック・フランシス「罰金」エド・マクベイン

私が24年前に読んでいた本。奥田継夫「夏時間サマータイム」ディック・フランシス「罰金」チェザーレ・パヴーゼ「美しい夏」エド・マクベイン「殺意の契」「殺しの報酬」「警官(サツ)」星新一「祖父・小金井良精の記」「人民は弱し、官吏は強し」P・D・ジェイムズ「ナイチンゲールの屍衣」リチャード・スターク「悪党パーカー 犯罪組織」「悪党パーカー 弔いの像」猪俣勝人「日本映画名作全史 現代編」丸谷才一編「四畳半襖の下張り裁判全記録」五木寛之「青春の門 筑豊編・上巻」「青春の門 筑豊編・下巻」以下「自立編」放浪編」「堕落編・上」舟崎克彦「ぽっぺん先生と帰らずの沼」新藤兼人「ある映画監督」土屋隆夫「影の告発」ニコラス・ブレイク「賞の終り」久生十蘭「久生十蘭傑作選�后〔儀酳�語」
24年前の2月から3月にかけて読んだ本は、傾向が現在とほとんど変わっていない。同じだ。中には読んだことを忘れているものもある。
今日はまったく、というのは実は嘘にしても、何ページしか読めなかったので、昔の日記から拾ってみた。
今週は読書日記の体をなしていないので反省だが、後何日かは野暮用が続くのでこんな調子はまだ終わらない。



2001年12月06日(木) 井上ひさしと十川信介の対談を読み、小田実の巻頭エッセイに目を通す。

井上ひさしと十川信介の対談を読み、小田実の巻頭エッセイに目を通す。
前者は岩波書店の「図書」12月号の「明治文学への新しいアプローチ」と題したもの。これはもちろん「新日本古典文学大系 明治編」発行の宣伝を兼ねている。
ちょっとした文章で人は常識だと言い放つだろうな、ということも井上ひさしだと勉強になるような気がする。例えば、こんなところ。
「明治は文明開化のなかで、西欧のものを全部良しとし、それまでの日本のいろいろな蓄積、語呂合わせや戯作的なものなどを軽んじたり、全部否定してしまった。」(P2)
後者は新潮社の「波」12月号「『夏炉冬扇』の『アンガジュマン』」という題名である。これも著者の新刊「くだく うめく わらう」の宣伝になっている。
「この『日本』は、これはどうも私の考える日本ー『私の日本』ではない。/私はこのごろ『私が日本だ』と考えることにしている。そう考え、人にも言うことにしている。それは、たとえば、アメリカ合州国のおおぼえめでたかろうとして、彼らの『報復戦争』に日の丸と軍艦旗をかかげさせて軍艦を派遣するような日本は『私の日本』ではないからだ。」(p2)
こういう感覚は嫌いではないのでこれからはこの著者に少し注目することになる。
今日も「一冊」の読書できず。



2001年12月05日(水) これがファンタジーの傑作。「ウィンターズ・テイル」(マーク・ヘルプリン)はぎこちないところのない真の物語。

これがファンタジーの傑作。「ウィンターズ・テイル」(マーク・ヘルプリン)はぎこちないところのない真の物語。早川書房のファンタジー文庫である。このピーター・レイクと白馬の物語が日本で出版されたのは昭和62年、つまり1987年。今から14年前のことである。全米ベストセラーが謳い文句だったがどの程度読まれたのか。
今世をあげてファンタジー・ブームの観がある。ハリー・ポッターのシリーズのおかげで他のファンタジー作品が多数邦訳されて出版界を賑わしている。
今こそ「ウィンターズ・テイル」がその真価を世に問う時である、というのは大げさである。そもそも本の楽しみは面白い本をひそかに読むことにある。
こんなに楽しく面白い本を他の人は知らない。そんな優越感のようなものを感じるのも楽しみの一つにちがいない。
誰もが同じ本を読むなんて・・・・などと理屈をこねても仕方がないので、やめる。
で、「ウィンターズ・テイル」だが、冬の都会を颯爽と翔けぬける白馬のイメージと無条件に面白かったという素朴な印象が残っているだけで、詳しい内容は覚えていない。
物語の殿堂入り間違いなしという記憶がすべてなのである。
ハリー・ポッターでファンタジーものに目覚めた人にぜひ読んでほしい。中身を言えないので説得力がないので、ヒジョーニ哀しー!
「渋沢家三代」はその三代目たる敬三が話題の中心になってから物語的になり印象が鮮烈である。初代の栄一との絡みがよく、栄一の印象度もあがってきた。



2001年12月04日(火) ジェイムズ・ジョイス「若き日の芸術家の肖像」(翻訳者・飯嶋淳秀)を読む。

 ジェイムズ・ジョイス「若き日の芸術家の肖像」(翻訳者・飯嶋淳秀)を読む。しかし、抄読的としか言いようがない。あるいは単なる一読。難解。文章を追っていても頭に捕捉できるものがほとんどなかった。そういう文体なのか。折りあらばまたいつか繙くことにしよう。
こちらにジョイスを読むことへの憧れがいつもあるから始末が悪い。
今日も野暮用でここまで。



2001年12月03日(月) まだ佐野眞一「渋沢家三代」(文春新書)を少し。

佐野眞一「渋沢家三代」(文春新書)を少し。178ページまで。渋沢栄一の長男、篤二のこと、主君の慶喜の生涯などに触れながら、篤二の長男の敬三へ話題が移っていく。歴史音痴としてはあまり読みやすくはないが、時々はっとするようなエピソードが出てくるのが救いで読み続けている感じである。
ー人生盛りの三十一歳で「隠居」となった慶喜がもう一つわが身を蕩尽したのは、写真、狩猟、弓、自転車、油絵、書、釣り、陶芸、謡曲、刺繍に至るまでの多彩な趣味だった。慶喜は多芸多才であったばかりでなく、何でも上達しないと気がすまず、のめりこんだら徹夜もいとわない凝り性だった。ー(169ページ)
印象で言うとこの本は主人公たる渋沢家三代の男たちと関わりを持った人たちの方が興味深く書かれている気がする。特に栄一は最も重要な人物であるはずなのに、人間としての魅力や大きさが伝わってこない。記述が通り一遍という印象。印象なので大きな声では言えないのが残念。
結局、今日も本は読めず。



2001年12月02日(日) 今日も拾い読みのみ。本は読めなかった。

今日も拾い読みのみ。本は読めなかった。
新潮文庫の「ビッグ・トラブル」(デイヴ・バリー)を28ページまで。樹上生活者または浮浪者のバリーは時々思い荷物をちょっと運ぶアルバイトを始める。独立したエリオットは広告代理店を始める。この二人がどうつながっていくのか。今のところ、あまり興味がない。
随分と評判になっているのは出演者の豪華さからか。講談社の「編集者の学校」のトップバッターは本を扱ったテレビ・バラエティ番組「ホンパラ」(司会は関口宏)に連続して登場していた見城徹は「踏み込めないやつはだめですよ」と断定する。
「本の雑誌」12月号の特集はかつて評判をとった雑誌についてで、熟読した。話がわかったのは「ワンダーランド」と「奇想天外」の二つ。確か1975年前後に出ていたはず。これは欠かさず買っていた。そのころのことを少し懐かしく思い出した。
「渋沢家三代」はストップしたまま。



2001年12月01日(土) 講談社の読書人の雑誌「本」の12月号を部分的に熟読。

講談社の読書人の雑誌「本」の12月号を部分的に熟読。城山三郎の連載「この命、何をあくせく」の29回目は大江健三郎のこと、その祖母の言葉のこと、家族のこと、戦争のこと。題名は「魂が戻って行く」である。
好悪なかばする坪内祐三の「ここまでは描きたかった」は趣味的なエッセイストであることを告白したも同然の内容。「そこまで描くべきだった」と言いたい。「慶応三年生まれ 七人の旋毛曲がり」が講談社エッセイ賞を受賞したとは知らなかった。
高橋克彦は「古今無双の男」と題して好評の新著「天を衝く」づくりの由来を説く。
柏英樹という人は「なぜ長嶋は鬼コーチに詫びたか」で武上四郎元ジャイアンツコーチと長嶋元監督との交流を描く。
大江正章という人が書いた文章の題名は「狂牛病以上の大問題」で、読まねばなるまいと思わせる。「問題なのは狂牛病だけではない。近代畜産そのものが問われているのだ。」この雑誌は薄いにもかかわらず結構多彩である。人畜無害なものから日本のあり方や人のあり方まで幅広い。講談社はそういう出版社なのかとあらためて納得できる気もする。
野暮用で一冊の本は読めなかったので、こんなことになった。


 < 過去  INDEX  未来 >


イセ [MAIL]

My追加