読書日記

2002年04月30日(火) 佐伯泰英「妖怪狩り(夏目影二郎始末旅)」(光文社時代小説文庫2001.11.20)を39ページまで。

佐伯泰英「妖怪狩り(夏目影二郎始末旅)」(光文社時代小説文庫2001.11.20)を39ページまで。
シリーズ第4作。題名をよく見るとホラー小説と受け取る向きもありそうなことに気がつくが時代劇を読む人でそう思う人は結局いないだろうという題名である。
主人公もすっかり板について安定度が高く、「万一の時、鳥居を切れ」という父親の指令をなんの疑いもなく受け入れる。
冒頭はかつてあった無頼の雰囲気のかけらもない正調時代小説といった趣で始まる。
文庫の尻尾の方に文庫目録があって他の時代小説作家の名前と作品名が並んでいる。そのすべてがこの佐伯泰英氏の作品のように画期的に面白いのだろうか。
隆慶一郎氏の2作品はもちろん知っている。
それ以外のものは実際のところどうなのだろうか。
古着屋総兵衛、密命、狩りシリーズといままた続けざまに読んでいるがこのハイレベルの面白さはどこから来るのだろうか。
逆に例えばその才能を大長編一本に絞ったならば、どんなすばらしい作品が生み出されるのだろうかともったいなく思う気持ちもある。



2002年04月29日(月) 藤田紘一郎「笑うカイチュウ(寄生虫博士奮闘記)」(講談社文庫1999・3・15)を拾い読み。

藤田紘一郎「笑うカイチュウ(寄生虫博士奮闘記)」(講談社文庫1999・3・15)を拾い読み。
一時期ベスト・セラーの一角を占めた上に今でもよく読まれ続けている評判のよい本らしいので、どうするかと迷った。しかし、清潔至上主義の現代日本社会に痛打を与える画期的エッセイという好印象から読むことを決意した。
決意したといってもいつもの拾い読みに変わりはない。
「はじめに」を読み、次に第三章のペットを話題にしている部分をほぼ読んだ。
犬が話題に上ると興味が倍加するのは、小さな犬という意味の名前がついた犬を飼っているせいだろうか。
文章が読みやすく、主旨も明快で文句なし。
ちょっと元気の出る文章でもある。



2002年04月28日(日) 平井呈一「真夜中の檻」(創元推理文庫2000.9.14)をほんの少しだけ。

平井呈一「真夜中の檻」(創元推理文庫2000.9.14)をほんの少しだけ。
目次を見るだけでもう満足。そういう本である。
序 平亭先生の思いで 荒俣宏
真夜中の檻
エイプリル・フール
海外怪談散歩
西欧の幽霊
私の履歴書
解説 紀田順一郎
Lonely Watersー平井呈一とその時代 東雅夫
平井呈一著訳書一覧
解題
付・『真夜中の檻』序跋
序 江戸川乱歩
跋 中島河太郎
まず荒俣宏の序文を読み、楽しんだ。自分の著作でも書いているせいか5ページと短い。改めて10ページはほしかった。
平井呈一氏個人全訳のアーサー・マッケン集成を古本屋で買おうとしてお茶の水駅から道を下って行った日のことをふと思い出した。
荒俣宏の文章には過去喚起力がある。



2002年04月27日(土) ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブック購入。

懐かしさのあまり当分読めそうにないことがわかっていて次のような本を少し買ってしまった。
ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックで、
「大はずれ殺人事件」クレイグ・ライス(訳=長谷川修二)
「泥棒成金」デヴィッド・ドッヂ(訳=田中融二)
「ギデオンの一日」J・J・マリック(訳=井上一夫)
「犯罪カレンダー(1月~6月)」エラリイ・クイーン(訳=宇野利泰)
「犯罪カレンダー(7月~12月)」エラリイ・クイーン(訳=宇野利泰)
「EQMMアンソロジーⅡ」エラリイ・クイーン編(訳=佐倉潤吾・他)
「死人はスキーをしない」パトリシア・モイーズ(訳=小笠原豊樹)
「汚辱と怒り」エリック・アンブラー(訳=宇野利泰)
「贋作展覧会」トーマス・ナルジャック(訳=稲葉明雄・北村良三)
「興奮」ディック・フランシス(訳=菊池光)
「大穴」ディック・フランシス(訳=菊池光)
「火薬樽」ウイリアム・ハガード(訳=佐和誠)
ハヤカワ・ミステリ文庫や新訳で他の社の文庫で読めるものもあるが、見ると買いたくなるのは一種の条件反射か刷り込みによるものらしい。我慢できるときもあるが今回はだめだった。
「興奮」「大穴」はもちろん読んでいるのに。それにしても思い出す。エラリイ・クイーンが絶対に近い名前だった時、「犯罪カレンダー」を手にとって悩んだことを。結局買わなかったあの何十年前てなものである。
本棚を改めて眺めると早川書房のこのミステリ・ブックが結構あり、読んでいないことに気がつく。
同じように東京創元社の創元推理文庫も存在している。やはりあまり読んでいない。
そこで決めた。
暫くのあいだ、この2種類の本を中心に読んでいこう、と。
ハヤカワ・ポケット・ミステリと創元推理文庫を優先して読んでいくことにした。
ただ、佐伯泰英など例外はあるので早くも挫折した?



2002年04月26日(金) 佐伯泰英「熱風!(古着屋総兵衛影始末⑤)」(徳間文庫2001/12/15)を読み終える。

佐伯泰英「熱風!(古着屋総兵衛影始末⑤)」(徳間文庫2001/12/15)を読み終える。
久々に読んだシリーズ五作目。やはり面白い。今回は映画「十戒」を思わせる壮大な場面もあり、筆者が並の作家でないことをまたまた証明している。
同じような場面や展開は二度と書かないという決意が十分窺い知ることができる。
総兵衛とは別に特異な主人公を登場させたためにヒーローたる総兵衛がやや裏に回った分、総兵衛一家・一族に属する他の者たちが常よりも活躍する機会が与えられ、物語にも拡がりが出た。
悪役が後半になって尻すぼみになった感もあるが、これは凄味のある剣客たちを登場させすぎたせいだろう。これは文庫本四百ページの限界で、六百ペ-ジならもっと豪快な立ち回りがあと何回か読めたはず。
世田谷から渋谷に越したという筆者のあとがきもよかった。



2002年04月25日(木) 佐伯泰英「熱風!(古着屋総兵衛影始末⑤)」(徳間文庫2001/12/15)を56ページまで。

佐伯泰英「熱風!(古着屋総兵衛影始末⑤)」(徳間文庫2001/12/15)を56ページまで。
そろそろ佐伯泰英印の時代劇を読みたいな、最初はやはり「総兵衛」だなと、本屋を覗いてみると見当たらない。文庫本は出た時が買い時は本当だった。気持ちが熟すまで待っていたら手に入らないことになる。半年もたっていない本が店頭から姿を消していた。
ちょっと大きめの本屋でもそうだった。
結局見つけたのだがそこは「ブックガーデン」という新古書店だった。何も期待せずにひやかしていたら目の前にあった。
3月から4月にかけては個人の家で本の大量処分が行われるためなのか、「総兵衛」ものが何冊もあった。
今日はここで時間切れ。



2002年04月24日(水) 中鉢信一「進化するサッカー」(集英社新書2001/12/19)を少し。

中鉢信一「進化するサッカー」(集英社新書2001/12/19)を少し。
チームの強さを監督やコーチの手腕によるものだという考え方はプロ野球の影響が大きい。歴史的に見る・考えることが苦手なのは手早く「ドラマ」や「ロマン」に感動したい要求から来るものに違いない。
ヒーローをすぐ作りたがる。昨日のヒーローを手を返すようにおとしめる。
そんな見方からの脱却を促すのがこの本である。
日本サッカーの進化の歴史を平明な文章で解説する得難い本である。
どうもサッカーの本は平均して面白い気がする。



2002年04月23日(火) 星野之宣「エル・アラメインの神殿」(メディア・ファクトリー2000/12/19)を読了。

星野之宣「エル・アラメインの神殿」(メディア・ファクトリー2000/12/19)を読了。
久しぶりに漫画を読んだ。
「海の獅子」「エル・アラメインの神殿」「荒鷲と要塞」「アルデンヌの森」「国辱漫画」「国辱漫画2 G.H.Q.」の全6篇。
SF味が最も濃いのは「エル・アラメインの神殿」
戦争ホラーとも言うべき「アルデンヌの森」
架空SF戦記「荒鷲と要塞」はB29対ドイツのジェット戦闘機の闘いがメインで、空中戦の迫力と地上の惨状描写に力があり、傑作である。
最後の「著者書き下ろしあとがき」も読ませる。



2002年04月22日(月) 村上龍「eメールの達人になる」(集英社新書2001/11/21)を少し。

村上龍「eメールの達人になる」(集英社新書2001/11/21)を少し。
文章の書き手として今が「旬」の人が綴る文章はどんなものであれ面白いし、楽しい。
この一見「実用書」の本もエッセイ集として面白い。
19ページの指摘は目新しいことではないにしても刮目すべき意見だった。
いわく、
”実は、「させていただきます」という言い方は、単純に相手に敬意を払い、へりくだっているわけではない。「わたしはこの仕事を自分から望んでやるわけではありません。誰かの命令を受けて、あるいは許可をもらってやらせていただくのです。だから自分には責任はありません」というニュアンスほうが強い。
なぜそのような表現が定着してしまったのか。
それは、いまだに日本社会では、責任の所在がはっきりしないコミュニケーションのほうが好まれるからだ。”



2002年04月21日(日) 小林信彦「物情騒然。(人生は五十一から)」(文藝春秋2002/04/15)購入。

小林信彦「物情騒然。(人生は五十一から)」(文藝春秋2002/04/15)購入。
大きな本屋に出かける時間だけでなく付随する用事もなく手にとることができず、いつになったら状態が続いていた。やっと今日買うことができた。
大量に売れそうな新しい本しか置いていない本屋は近くにある。この本も売りようでは売れるはずなにのに、散歩の範囲の書店では見かけなかった。
今日例のところを参拝した総理大臣が「二度と戦争を起こしてならない。」などとしゃべった。どこかと戦争するための準備が着々と進んでいることを逆説的に証明したように聞こえた。
まさにこの本の題名の通り。さまざまな「物情騒然」状態がやむことのない今の状況であとしてはならないことは「戦争」しか残っていないことを首相は示唆してのけた。
本来ユーモア・エッセイの一種のはずがシビアなエッセイに変わってきているのは作家が実に正直だからなのだろう。
ものが見えすぎる作家が去年一年間を今年のために見事にまとめたエッセイ集。
ただごとではない。



2002年04月20日(土) 読書の原点はデュマとブロンテ。

 読書の原点はデュマとブロンテ。
きょうも「かめくん」の第二章を読んだだけなので過去を振り返る。
アレクサンドル・デュマの「三銃士」とエミリ・ブロンテの「嵐が丘」の二冊が本を読む楽しさ・醍醐味を実感した原点である。
寝食を忘れてとよく言うがそれに近い経験をした。日曜日一日、昼御飯を食べる時間も惜しんでひたすら読み続けた。生活の中で読書が欠かせないものになったのはその時からである。それは高校生のどこかの夏で、あと10数ページで終わることに気がついて何かもったいないような、残念なような思いしたのもその時だった。
SF一辺倒(クラークの「都市と星」にしびれていた。)からジャンルを問わずに読むように変わったきっかけでもあった。



2002年04月19日(金) 「本の雑誌」5月号(メダカ全速号)は元気だ。

「本の雑誌」5月号(メダカ全速号)は元気だ。
今月号も非常に元気な雑誌である。1ページ目の編集長の「今月の一冊」から最後の128ページの「後記」まで全部元気爛漫。
その中でも特にパワー全開なのは、宮部みゆきの4ページに及ぶ「私のオールタイム・ベストテン」キングの「シャイニング」がまた読みたくなった。次が目黒考二の「笹塚日記」今回は妙に快活である。坪内祐三の読書日記。木村晋介の「どたどたどたと一週間」が続く。
さまざまな本好き人間たちがさまざに語る「本の雑誌」も通巻227号。今回もやっぱり元気である。
無理やり3分の2は読んだ。



2002年04月18日(木) 北野勇作「かめくん」(徳間デュアル文庫)と町井登志夫「今池電波聖ゴミマリア」(角川春樹事務所)を少しずつ読む。

北野勇作「かめくん」(徳間デュアル文庫)と町井登志夫「今池電波聖ゴミマリア」(角川春樹事務所)を少しずつ読む。
「かめくん」は第一章「模造亀」(61ページ)を読み終わった。かめくんが雇われた仕事は異次元空間から出現する怪獣と闘い街を救う事だった。かめくんが何者なのかが小出しに暗示されながら淡々とかめくんの日常生活が描かれる。
「今池電波聖ゴミアリア」は93ページまで読んだ。
自己中心的武闘派白石と相棒を組んだせいで聖畝は予想もしない事態へと突き進むことになる。サイバーディラーから盗んだディスクが相当な価値を秘めたものだと気づいた頃、白石が熱を上げて入れ込んでいたマリアという娼婦を誘拐してしまい、聖畝はまたやっかいな事態に引き込まれていく。
どうしても漫画(コミック)風な設定と展開に今一つ乗れない。それでも白石の人物像と白石に引きずられながらも自立していく聖畝の人物像が面白い。
この2作品とも気軽に読める娯楽SFである。



2002年04月17日(水) 北野勇作「かめくん」(徳間デュアル文庫)を26ページまで。

北野勇作「かめくん」(徳間デュアル文庫)を26ページまで。
童話風の雰囲気を醸し出す端正な文章はどこかノスタルジックでもある。
一昔前の日本の街風景の中をかめくんが歩いている。しかしレプリカメなどというカタカナが出てくるのでちょっと違う世界なのだなと了解できる。
この調子でいつまでもかめくんの何の変哲もない日常生活が描かれ続けても楽しんで読み続けることができそうな文章力がある。
途中「男はつらいよ」の寅さんを連想するところもあって短時間ながら充実した読書となった。
今日もいろいろとあってこれだけ。



2002年04月16日(火) 村松友視「夢の後始末」(ちくま文庫1998/09/24)を読み終わる。

村松友視「夢の後始末」(ちくま文庫1998/09/24)を読み終わる。
幸田文から始まり、武田泰淳、野坂昭如、唐十郎、吉行淳之介から椎名誠まで登場する。「海」編集部にいた著者の回想録である。「海」をほんの少し講読していたこともあって懐かしかった。
印象として気難しそうな作家ばかりなのにいとも簡単にそれらの作家と親しくなっているような感じで著者が独特の編集者だったことに気づく。
1984年の「野性時代」6月号を購入していながら結局読まなかったことを強く後悔した。
ここに登場する作家の作品を読んでいなくてもエピソード集として十分読める優しい長編エッセイである。



2002年04月15日(月) 永井龍男「黒い御飯」を読んだ。

永井龍男「黒い御飯」を読んだ。
氏の処女作。19歳の作品というから凄い。
印象的な冒頭の文章。
思いがけない中間の展開。
くらくらするくらい見事な結末。
そして人物の心中を的確に描き出す文体。
後の永井龍男のほぼすべてがすでにここにある。最初から完成されていた。
それにしても永井龍男の小説を読むたびに連想するのはアメリカの作家ダン・シモンズである。
永井龍男が連作短編からなる長編をもしも構想して完成させたなら純文学の枠を越えた傑作になったにちがいない。
ダン・シモンズを思い出したのは「ハイペリオン」が一話一話が感動的な短篇からなる大長編だったからである。
ちょっと寝言のようなことを書いた。



2002年04月14日(日) 町井登志夫「今池電波聖ゴミマリア」(角川春樹事務所2001/12/08)を47ページまで。

町井登志夫「今池電波聖ゴミマリア」(角川春樹事務所2001/12/08)を47ページまで。
第2回小松左京賞受賞作品で帯にはノンストップ・スクールバイオレンスSFとある。確かにその通りの内容である。
近未来の落ちるところまで落ちた日本の孤高の武闘派高校生を狂言廻しに使っているようなので今のところ未来版「ビーバップ・ハイスクール」という印象で目新しい事はない。しかし、小松左京絶賛である。
このままの調子で終わるわけがない。
「夢の後始末」は214ページまで進む。
永井龍男が登場したのでびっくりした。いわば最先端の作家にみならず伝統的な作家にもこの著者は強かったのだ。唐十郎から舟橋聖一や尾崎一雄まで実に幅が広い。



2002年04月13日(土) 村松友視「夢の後始末」(ちくま文庫1998/09/24)を114ページまで。

村松友視「夢の後始末」(ちくま文庫1998/09/24)を114ページまで。
かつての中央公論社が作っていた文芸雑誌「海」のこともこの著者が編集部に籍を置いていたことも知っていたので、その「海」を通して知った作家たちとの交流を書いたこの作品のことはずっと気にかかっていた。
「私、プロレスの味方です」などの一種のエッセイ集は愛読したものの、その小説はなぜか読みたいとは思っていなかった。「時代屋の女房」も映画はビデオで観た。原作の方はもしかしたら読んだかもしれない程度の自信のなさで情けない体たらく。
角川書店の「野性時代」は毎月講読していたので、連載されたか、一挙掲載されたかは定かではないにしろ、発表当初からこの「夢の後始末」のことは記憶に残っている。
その後、角川書店が単行本で発行し、次に角川文庫で出ても、題名を見るとピクッとすることはあっても購入するまでには至らず、だった。
それが今回読み始めたら一気に100ページを超えてしまう面白さである。今までなぜ敬遠していたのか、不思議なほどはまってしまった。
まず名だたる作家たちのなまのエピソード集として読める。
次に著者の青春時代のユニークな独白集としても読める。
そしてなんといっても文章が明快で正確であるので安心して読める。
昨日まで永井龍男の小説を読んでいたので作家のことが書いてある本を読む気にさせたのだろう。
解説は、常磐新平氏。



2002年04月12日(金) 永井龍男「青梅雨」(新潮文庫1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読み終わる。

永井龍男「青梅雨」(新潮文庫1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読み終わる。
「一個」「しりとりあそび」「冬の日」の三編を読み、文庫本「青梅雨」を読了。
「一個」は、停年間際の男の死にいたる狂気。「しりとりあそび」は、中年夫人のしたたかさ。「冬の日」は、理性によって女の情愛を抑え込んで愛する者と別れる道を選んだ中年の寡婦の哀しさを描いている。
「狐」「そばやまで」「枯芝」「名刺」「電報」「私の眼」「快晴」「灯」「蜜柑」「一個」「しりとりあそび」「冬の日」「青梅雨」の全十三編収録。
解説は、河盛好蔵。
なんと千九百六十九年五月発行の本である。全く古びていない。
これだけの名品を生み出した著者の作品集が新潮文庫にこの一冊しかない。信じられないぐらいレベルの高い一冊である。
「狐」「枯芝」「私の眼」「一個」から強烈な印象を受けた。
一編だけなら「狐」を選ぶのは、物語性が強いからかもしれない。



2002年04月11日(木) 永井龍男「蜜柑」(新潮文庫「青梅雨」1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読む。

永井龍男「蜜柑」(新潮文庫「青梅雨」1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読む。
これは不倫の男女の話。妻子持ちの中年男と十五歳年下で三十歳のバツイチの女が二人の関係を清算し別れることを決めて乗ったタクシーでの帰り道に、行く先を尋ねる黒人米兵が現れたり、運転手から黒人兵と日本女性の愛の物語を聞かされたり、道いっぱいにまかれた蜜柑に進行を遮られたりする話である。
別れを決意した二人が何事もなく帰還すれば、この後何事も起こらないことを確信できたが、この終わり方は余韻を引く。
所々で艶かしい文章があるせいか、男の再度の決意にも関わらず・・・という終わり方である。
ここまでいくつか永井龍男の短篇を読んできて流石と感じるのは、出だしと最後の文章の印象の強さである。もちろんその間もいいのだが、最初と最後がもっともうまい。
達人の手を感じた。



2002年04月10日(水) 永井龍男「私の眼」「快晴」(新潮文庫「青梅雨」1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読む。

永井龍男「私の眼」「快晴」(新潮文庫「青梅雨」1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読む。
「私の眼」は、ほとんど関わりのない通夜に真顔でやって来た男がある種の狂人だったという話。語り手がこの男であるところが怖い。始めはただの一人称の話と思って語り手の調子に合わせていると徐々に異次元の世界に引きずり込まれていくのだ。
SFやホラーを読むつもりでいればまた別の興趣も湧くがこれは不意打ちである。
奇妙な味わいを持つ作品。
「快晴」は、「私の眼」の続編で、こちらは三人称。告別式から骨上げまでの様子を描いている。世話係の者たちに通夜に現れた狂人の噂話をさせることで「私の眼」という話の解説としている。
十四、五人の中にたった一人だけ狂人が混じっている。ありえない事ではない怖さである。
最も怖いのは、けだるそうに寝そべっている赤犬の脇から男がゆっくり立ち上がる場面だった。
日本のモダン・ホラーといっても全然おかしくないできである。
「付け足し」
「青梅雨」の「太田と」なのか「太田さんと」なのかについて。
その後、小学館の「昭和日本文学全集」に当たってみた。なんと、こちらは「太田と」であった。新潮文庫が間違いとは言えなくなった。
定本はないのか。二種類あることになってしまう。



2002年04月09日(火) 永井龍男「電報」(新潮文庫「青梅雨」1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読む。

永井龍男「電報」(新潮文庫「青梅雨」1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読む。
これは家族を持とうとしない男の話。三十五、六歳の働き盛りの男が列車内で五年前に別れた女を目撃する。女は男の連れがいて二人は途中の熱海で下車する。
その直後、女に電報が届いている旨の車内放送が入る。女が階段を降りていくのを見ていた男は自分は知り合いだから電報の内容を女のところへ打ち直してもよいと申し出る。
そして見せられた電文は男の詮索心を満足させるものでは全くなかった。
むしろすべてを知っている者にからかわれたような気がする男だった。
十ページ程度の小品で、見事にオチのつく小気味よい作品である。
短い作品しか読めない日が続く。
味わいの深い作品があって良かった。



2002年04月08日(月) 永井龍男「枯芝」(新潮文庫「青梅雨」1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読む。

 永井龍男「枯芝」(新潮文庫「青梅雨」1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読む。
これもまた家族の話で、中年の夫と二十代の若い妻のほのぼのとした家庭生活を描いたものかと錯覚するような始まり方が徐々に崩れていき、実は夫の方が年上の妻と離婚したばかりでその離婚の原因ともなった愛人を妻に迎えていたのだということが分かる。
そんな二人のやりとりが続いて、妻の若さが強調される。
都会から離れて仕事をしようとしてなかなか集中しきれない夫と時間を持て余す若い妻の艶かしい悪ふざけを覗き見していた御用聞きの少年が、その雰囲気に誘われようにして再び覗き見にやって来る。これが最後の場面になるのだが、少年は信じられない光景を見ておかしな気持ちになって変な空想に落ち込んでいくのである。
洋室でケント紙に向かって製図している男の姿を見た直後に庭で寝そべっている同じ男を見てしまったのである。ほとんど同時に別々の場所にいる同一人物を目撃したことになり、少年はとりあえず、
「なあに、あしたの朝になればなんだって分かるさ」
と思って深刻さを受け流そうとするのだが、より深みにはまっていく。
「狐」と同じように「この後どうなるのか」や「これはどういうことか」についての答えはないので、こちらで勝手に考えるしかない。
この話もホラー小説といえなくもない怖さを持っていた。
短篇小説の名手という評判は嘘ではない。驚くべき腕前の作家であった。



2002年04月07日(日) 永井龍男「狐」(新潮文庫「青梅雨」1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読む。

永井龍男「狐」(新潮文庫「青梅雨」1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読む。
これも家族の話で「青梅雨」よりも直截に怖い。
富裕の家に生まれた長男が都会に出てきて胸を患い静養生活に入り、そのまま屋敷を建ててもらい、結婚もし、金に苦労しない一つの家族が出来上がる。
金に不自由し始めても男の生来の坊ちゃん性分は変わらず、妻との喧嘩が絶えなくなっていき・・・。
始め妻の気丈さは不気味さに結びついたが、結末ではいつまでも救われない夫に対して愛想をつかすかつかさないかのぎりぎりの線をうまく保っている賢さのようなものを感じた。
男はいつまでもばかだが、女や子どもは「狐」のようにしたたかでなおかつやさしいのかもしれない。
この終わり方では、男が眼を醒ました時、おいてけぼりにされているだのだろう。
「青梅雨」よりも少しだけ長いだけなのに、読みごたえが長編に近い。中身がぎっしり詰まったいわば巻頭を飾るボーナス作品である。強烈だった。



2002年04月06日(土) 永井龍男「青梅雨」(新潮文庫「青梅雨」1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読む。

永井龍男「青梅雨」(新潮文庫「青梅雨」1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読む。
名作中の名作と言われている短篇小説である。文庫本で20ページ程度の本当に短い作品だった。
事件を告げる新聞記事で始まり、電車で帰宅途中の老人が描写され、さらに帰宅した老人を迎える家族の描写が続く。最後は始めの新聞記事に対応する内容の文章で締めくくられる。
曖昧さを極力排除した点でハードボイルド小説(?)に近い。結末部分に関してだけでももう一度は熟読したくなる点ではミステリー小説にも似ている。
ページ数では短くても気になる場面や文章表現がいくつもあるという不思議な小説である。
多分今はもう訂正されていると思うが240ページの最初の1行目、
「無職太田千三さん(七七)方で、太田と」
のところでひっかかって調べた。つまり、「太田と」は「太田さんと」の間違いではないか。「さん」が抜け落ちていると考えた。
次の本等を読んだ。
中条省平「小説家になる!」(メタローグ1995/05/10)の195ページ。
「新潮日本文学18 永井龍男集」(新潮社1972/6/12)の284ページとその月報48の永井龍男「わが文学の揺籃期 新聞記事」(つまり著者自身が「青梅雨」に言及している文章)の2ページ。
いずれも「太田さんと」だった。
最初読んだ時にそこでしばらく立ち往生したので確かめてみた。しかし、この文庫の定本である講談社の「永井龍男全集」は持っていないので、もしかしたらそちらはそうなっているのかもしれない。



2002年04月05日(金) 黒田研二「今日を忘れた明日の僕へ」(原書房2002/01/15)を読了。

 黒田研二「今日を忘れた明日の僕へ」(原書房2002/01/15)を読了。
読み終えるつもりは全くなかったのに、読み終わってしまった。読んでしまった。
「謎」がどんな風に明らかになるのかが気になって仕方がなくなり、結局最後まで行ったのである。
誰でも考えつきそうで考えつかない、ちょっとシャクにさわるワン・アイデアが命の一種「女か虎か」風の長編小説で、これはまさに「ミステリー」小説と言っていい。
ケン・グリムウッドの「リプレイ」と以前に見たアメリカ映画「恋はデジャブー」を同時に連想した。
1時間ほど空いた時間があったら読んでみたらいいかもしれない。あと5分、もう5分とさらに30分近くは延長せずにはいられないだろう。
ぼうっとして何もする気力が湧かない時に読むのも脳への刺激になっていいだろう。



2002年04月04日(木) 宮部修「文章をダメにする三つの条件」(丸善ライブラリー新書2000/09/20)を拾い読み。

宮部修「文章をダメにする三つの条件」(丸善ライブラリー新書2000/09/20)を拾い読み。
こんな題名の本があるのかと手にとった。
その89ページから90ページにかけて堀口大学の「かすみ網」という詩が引用されていた。
小さな才の
かすみ網
張って待つ
息を殺して
じっと待つ

夜明け方
枕の上に
張って待つ

かすみ網
今朝の獲物は
ツグミかシギか
鵬程万里のコンドルか

息を殺して
じっと待つ

詩人の晩年の作品であるということだ。

日常的に「張って待つ」人達は詩を楽しむ時間を持っているようだ。



2002年04月03日(水) 牧野修「呪禁官」(祥伝社2001.9.10)を29ページまで。

牧野修「呪禁官」(祥伝社2001.9.10)を29ページまで。
城山三郎の本を書店や図書館で物色してなかなかイメージ通りの物が見つからない。まだ小説の方には興味がわかないせいもあってか望みの本が限定されているのでこうなるのだろう。
意外に少ない。新潮文庫のイメージが強いのでまずそこを探したが数冊しかなかった。
朝日新聞社の新刊文庫に「無所属の時間で生きる」を発見。文庫になって題名が連載中の題名に戻っている。
牧野修がホラー作家に化けてからは何か気味の悪いものを感じて興味は少しあっても読めずにいた。今回手にとる気になったのは表紙裏の東雅夫が書いた「こんなにも爽やかで痛快無類なオカルト青春アクションを書くなんて」を読んだからである。
「爽やか」「青春アクション」この言葉で決断した。
B級SFサスペンス映画のように快調な幕開けは文句なし。そのあとはやや滞りはその次に予定されている大ジャンプのための助走として読んだ。
荒俣宏「荒俣宏のデジタル新世紀探検」(日本経済新聞社2000/04/11)を飛ばし読みしてみた。基本はしっかり押さえた上での「デジタル礼賛」なので醒めているところは醒めている。読みどころはやはり「礼賛」の部分ではなく「基本」の部分である。新しさはすぐに古くさくなるので時流に乗らないものの見方・考え方を身につけることが最優先なのだろう。



2002年04月02日(火) 城山三郎「この日、この空、この私(無所属の時間で生きる)」(朝日新聞社1999.10.5)を読了する。

 城山三郎「この日、この空、この私(無所属の時間で生きる)」(朝日新聞社1999.10.5)を読了する。
久々の一冊に納得。納得の一冊。
今、この著者のエッセイは新しいものが一番おもしろいと確信している。
その日、その時をより深く生きる。その実践の書である。
確かあの変な小説「トリストラム・シャンディ」の作家がスターンだったはずで、本当にこんなすばらしいことを言ったのか、「形式にこだわるには、人生は短か過ぎる」というスターンの警句を城山三郎氏は「我が身に言い聞かせるようになった。」と引用している部分(81ページ)でぐっときた。
講談社の「本」に連載中のエッセイ「この命、何をあくせく」が俄然注目の的になった。妙な感じで人生の書に出会ってしまったというところ。



2002年04月01日(月) 明石散人「アカシックファイル(25)」(講談社「イン☆ポケット」3月号所収)

明石散人「アカシックファイル(25)」(講談社「イン☆ポケット」3月号所収)
今回は非常にまともで当たり前すぎるが、ここまで事の真相を把握してしっかり意見を言える人が少なくなってきている。
新聞社の人は売れる新聞作りと上に好かれる新聞作りの矛盾する二本柱を核としているからまっとうな主張を書けるわけがない。
外部に発注して代替わりしてもらうのが精一杯のところである。
それにしても時の首相たる者の批判がこんなにぴたっと決まる明石散人は、偉い!
多くの政治家はカネを求めて右往左往している。これが真相なのだ。
何日か前から城山三郎氏の本を拾い読みしている。
今日はエッセイと伝記の中間をいく面白そうな本を見つけた。
「花失せては面白からず」(角川文庫)が題名で副題があってそれは「山田教授の生き方・考え方」というもので、昨日読んだエッセイ「お叱りの手紙」の理論経済学者の山田雄三教授のことを書いたものである。(変な文章になった)
かつての恩師が九十三歳。著者が六十八歳。教授の晩年の三年間ほど著者は教授と元日に二人だけのゼミナールを開くという関係だった。山田教授の真摯な探究心と人となりに崇敬を抱いた著者がその生涯と二人のゼミについて語った本である(らしい)。
他に「わたしの情報日記」(集英社文庫)「打たれ強く生きる」(新潮文庫)も。


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