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言葉はどこまで意思を伝えてくれるんだろう? 2002年03月06日(水) 言葉は、ある程度の一般的な定義があって意思の疎通が成り立ってる。抽象的な言葉だと定義が曖昧で、お互いの意図するところが伝わりにくい、ということもあるけど、名詞だと一見正解はひとつしかないように思われる。けれど実際は「赤」と言っても様々な赤があるし、方言もあるし、「桜餅」とみんなが呼んでいても辞書で調べたらそれは違うんだと言われてみたり、コミニュケーションというものは、難しい。 そうした一般的に見られる違い以外にも、個人的な意味合いを込めた言葉っていうのもある。 例えば、父親がお風呂のことを「温泉」と呼んでいたとする。(フィクションです、念のため) それをいつも聞いている家族は、父親が「温泉に行ってくる」と言ったら、お風呂に入るんだな、と思うだろう。でもそれを知らないお客さんが来ていたとしたら、この人はどこまで行くんだろう、近くにそういう施設があるのかな、と思うかもしれない。ある程度の経験の積み重ねと理解への甘えで、コミニュケーションが成り立ってる。 また一方で、家族はただのお風呂だと思っていても、父親にとってみたら、入浴剤を入れたお風呂じゃないと温泉と呼べないのかもしれない。でもそれは家族は知らなくても、自分だけがわかっていればいいことだと父親は思っているかもしれない。そしてそれを説明しなくても、いつか何かの拍子に、家族はその事実を知るかもしれない。永遠に知られずに終わるかもしれない。 このように、一般的に理解される意味に、ちょっとだけ自分なりのニュアンスを含ませた言葉というのは、その人なりにあるかもしれない。(ないかもしれない) 要は、その言葉を使うときに、どこまで覚悟をするかだ。 自分の思う意味とは、まったく違う意味に取られるかもしれない。それでも、どうしてもその言葉をその用法で使うのか。誤解されても使うことで意義はあるのか。 そのこだわりによって誤解しか生まないとしたら、言葉はなんらかのものを言葉という記号に変換して、それが誰かに読まれて言葉が言葉以外のものに変換されて、初めて役目を果たすというのに、最初から理解されることを放棄していいものだろうか? それとも誤解されることも、コミニュケーションのうちだろうか。 逆に、すごく的確に言い表してる言葉だ、と思っても、どうしても自分の中でその言葉を使うことがためらわれる言葉、というものもあるけどね。 須和さんという作家が、そのことについて秀逸なあとがきを書かれていて(←知ってる人は笑ってください)、私はいたく感心したものだけど、…実践はしないけど。 あんまりうまく説明できた気がしないけど(例がよくなかった気がするな)、誤解されたとしても、これを読んでくれるあなたが何か考えてくれるなら、それでかまわない。 ------------- ダ・ヴィンチが「MONSTER」の特集だったので購入。 よく、ダ・ヴィンチではミュージシャンが本のこととか話してますが、あんまりおもしろくないよね…。そのミュージシャンのファンが、そのミュージシャンに興味があって、どういう本を読むんだろうーっていうときはおもしろいんだろうけど、何かの特集の時は、ミュージシャンに興味のある人じゃなくて、その本に興味のある人が読むわけだから。 流石に、同業者の井上雄彦のは視点が違ってておもしろかった。 (「SWITCH」ではその井上雄彦のロングインタビューが掲載されていた。写真も何枚も載ってるし。立ち読みしたけどおもしろくて買いたくなった。…結局買わずに帰ってきちゃったけど) 彼が指摘するように、浦沢直樹はインタビューでも冷静だ。 この特集、おもしろくないことはなかったけど、そんなにすごくおもしろかったとは思えず。これ見ても、そんなに「MONSTER」読みたくならないかも…。いや、新規読者開拓が目的じゃないのか…。 あ、「すべてがFになる」がゲーム(PS)になるそうですよ。ちょっとやってみたいかも。 |
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