今日から森博嗣著、Vシリーズ第5弾「魔剣天翔」を読み始めました。 本当は文庫化されるまで読まないでおこうかなと思ったのですが、我慢しませんでした。(同シリーズ第4弾まで文庫化済み) かと言って、ノベルスを買う気にはなれず、図書館で借りました。 それでも、文庫化されたら買うでしょう。 森博嗣の本は、僕にとってはコレクションアイテムのようなものですから。
その「魔天」の始まりの方にこんな文章がありました。
ところで、私は美術品がとても好きだ。その中でも、特に絵画に興味がある。それが好ましく、あるいは美しく感じられる理由(あるいは対象)は、物体としての「絵」そのものにはない。つまり、そこに描かれているものに対する美ではありえない。もしそうならば、絵画の写真を撮れば、ほぼ自分のものになるだろう。そうではなく、絵筆を持ちキャンパスに向かっている画家の姿、その目、その手、その姿勢、その生きざまのすべてが、つまりは「美」として、彼の絵の中に焼きついているのだ。 それを私は観る。
これを読んで、僕は頷かずにはいられなかった。 ほぼ同じことを僕も常々思っていたからである。 最近の日記にも書いたが、僕は映画が好きで、自分が凄いと思った映画がスタッフロールの部分に差し掛かると、決まって監督を初めとするスタッフに敬意を表さずにはいられなくなる。 物語の内容に感動するというよりも、それを創った人達に感動するのである。 『なんでこんな凄いものを創り上げたのだろう』と、唖然とするのである。(唖然、という言葉は良い意味でも使うのだろうか?もちろん僕は良い意味でそう表現した)
ちなみにタレントの島田紳助も、某番組でこう言っていた。
『深作欣二監督の映画を観て、物語に感動した、というよりも、ようおっさんがこんな面白い笑いの要素が入った映画を撮れるなぁって、監督に対して感動したよ、物語にではなくて』
「転換よ 永遠に」 ジュースを飲みたいときは お茶を飲み
お茶を飲みたいときには ジュースを飲む
そうすれば どちらかを飲み過ぎたとしても 自分のせいではない
それは 自分のせいである
―END―
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