| 2003年09月03日(水) |
Take Off Now |
「怖いこと、もの」 親父狩り やけど 集団 流行 南国 時間 交通事故 女 主観性 ・・・ おばけや超常現象なんて、全然怖くないっちゅーの。 上のに比べれば。
「レナードの朝」 そういう映画がある。 簡単に言えば、難病(確か脳の障害系)を患った患者が、ある薬で奇跡的に回復するが、それもつかの間で、次第にその薬の効き目がなくなっていき、結局元に戻ってしまうという話である。 この映画は、素直に受け取るなら、現実は厳しいということを言いたいのだろうか。 ひねくれて考えれば、難病が治って社会生活に復帰したって、何にもいいことなんてないよ、ということを言っているのだろうか。 何だか絶望感だけが余韻として残る映画であった、という記憶がある。 これがドキュメンタリーでなく、役者に芝居をさせたものにしたことの必要性があまり感じられない。 ただ、ドキュメンタリーにしたくても、できなかった、という可能性は大だと思われる。 カメラが病院内に入ることが許されないことが予想されるからだ。 きっと、そういうことだろう。 この映画はドキュメンタリーではないにしろ、ドキュメンタリーのようなものとして捉えるべき映画だと今では思う。
「提出物」 ふと、提出物のことを思った。 中学生や高校生の時、提出物を期限までに出さない人間であった、と自らのことを思い出した。 今でもやや、そうである。
提出物が期限までに出せない、という性格を、意識して直すべきなのか? 意識することが苦ならば、そうしなくてもいいのか? もちろん仕事をしていく上では、それを意識することは最低限のことだろう。 ただ、それ以外の時間を過ごす中でまで、それを意識することが苦痛なら、無理に直そうとするのはどうなのだろう? それも一つの個性である、ということにするのは許されないことなのだろうか?
自らの癖、性格で、生活していく上で支障をきたす程のものなら、自然と直そうとするだろう。 ただ、他人を意識し過ぎて直そうとまではしたくない。
アイデンティティーとは、どこまでがそれなのか、分かりづらい。 それが形のないもの・・・つまり流動的なものと分かっていていも、自分なりに拘ろうとする。 いや、拘っているのではなく、ただ習慣でそうしているだけなのかもしれない。
―END―
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