エアーポケット
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2005年06月30日(木) |
これは完全に矛盾ワールドですから |
ことあるごとに、どこか難しいほうへ思いが飛んでいってしまいがちになります。「もっと簡単に考えれば」ってアドバイスをくれる人もいます。もちろんそれは真意に受け止めてますが、どうもちょっと奥の方まで考えてしまうことが癖になってるみたいです。もうこれは10年くらい続いてる感じになります。もちろん勢いでいってしまうこともあります。そのときはそのときであれはあれで良かったってちゃんと思えてるんです。 先に難しいほうへと言ってしまってますが、僕にとってはそう難しいほうではないんです。当たり前のようにそっちに向かいますから、人に何かを言われたら、サラッとは受け流せない。もちろん相手がサラッと言ったことに対してはサラッと返すようにしてますが、それが自分だと思われるのは少しいやなんです。会話を楽しむ場面と、想いを言霊に乗せて深く伝える場面。人は複雑だから、その場面が入り組んでます。さっきはノリで話してたけど今は違うみたいな感じに場面は入れ替わります。その空気を読めて、会話が快話に変わればその場は有意義になる。
言霊・・・。初めてその言葉を聞いたのは高校1年1学期の最初の現代国語の授業。その先生は花粉症なのかなんなのか常に鼻声で、唇の端に唾を溜めて時おり使わなくなったプリントを用いて教壇の上で堂々とその唾を取り、同じプリントで鼻を咬む先生・・・。教室中いや学校中に不衛生感をばら撒いている先生で、もちろん評判もすこぶる悪い。 その先生が最初に黒板に書いた言葉は『言霊』。「言葉には魂が宿ってるんだ。だからそれを感じて受け止めなければならない。」と力説。他の生徒はその先生の強烈なキャラクターに圧倒されていた。もちろん僕も圧倒されていたが、とりあえず鼻水と唾は無視して、授業を聞いたのを覚えている。それに折角すごくいいことを言っているのに、そのキャラクターのせいで僕自身が受け止めれないのは嫌だった。例えば、音楽についても「あの歌は好きだけど、歌ってる人が嫌いだから聴かない。」っていうのは残念な気がする。もちろんキャラクターはすべてにおいて入り口だからしょうがない部分はあるけど。 昔ある人が、僕の部屋の本棚に置いてあった『ソフィーの世界』を見て、「これ、高校のとき嫌いな先生が教材に使ってたから嫌いなんだよね。」といった。『ソフィーの世界』、哲学を知る上でこんなに簡単にまたストーリー仕立てで読みやすい本はないのに・・・。「それはもったいないよ」って先に述べたキャラクターの話に近い話をしたのを覚えている。っていいながら僕の『ソフィーの世界』は半分あたりで止まっている。もう5年は開いていないように思う。引越し癖があいまって今はどこか奥のほうに眠っているのだろう・・・。
新たなスタートの最初の授業。『言霊』について語る、不衛生な先生。なぜか忘れない場面のひとつ。
次に『言霊』を聞いたのは、サザンの「愛の言霊」っていう歌。すいませんサザンはほっとんど聴かないのでここはこれ以上語らずサラッと流します。
それから、いくつかの出会いと別れを繰り返して、言葉が『言霊』となって届いた瞬間も味わった。あぁこれかって感じになったのをいく場面が覚えている。もちろん僕の『言霊』が届かなかった瞬間もいく場面か覚えている。
ときどき会話の中で、「届いてますか?」って確かめたくなるけどそれはしてはいけないような気がするからしない。それと「今何考えてるの?」っていう質問。よく女性がしますね。あれにはまったく意味がありません。それを知る手段は色々あります。仕草だったり、空気感だったり、スキンシップだったりと多種多様な手段を投じて、相手の感情を浮き上がらせる。それが人が人であることのひとつの喜び。
そして僕は、やっぱり生きるっていうのは、難しいと思うよ。
「ライフライン使いますか?」 「使います。テレフォンお願いします。」 「これは誰につながってるの?」 「神様です」 「30秒しかありません。どうぞ。」 「そこから見下ろす僕はどんな感じですか?そして、そこから見上げた景色はどんな感じですか?」
Today's Favorite Song
Mr.Children 『ランニングハイ』
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