お気楽日記



悲しくてたまらない

2002年05月01日(水)

 もう当分着る事はないだろう、とクリーニングに出そうと思っていた喪服。また大切な友達の告別式に着て行く事になるなんて思いもしなかった。
 突然だった。25日に外来で病院に行き、病棟に顔を出してその帰り。私はその子のいた2階の無菌室(クリーンルーム)の窓を外から見上げていた。その時間、彼女は 確かにその部屋にいた。でもそれから10時間と経たないうちに亡くなった。
 私がその事を知ったのは翌日、会社に行く途中に駅のホームで携帯のメールチェックをした時。昨日病院から帰ってメールチェックをしないで寝てしまったので、友達が昨日の夜に出してくれていたメールを読むのが翌日になってしまった。…文字で知らされると…本当に実感がわかない。前に亡くなった友達の時以上に頭が理解ができない。電車から降りて会社まで歩く間、もう1度メールを見たけど頭がボーッとして、どうにも考えられなかった。その日の仕事もボーッとこなし、午後の休憩時間にもう1度メールチェックをしたら、お通夜や告別式の知らせのメールが亡くなった友達の妹さんから入っていた。
 …やっぱりそうなんだ。…そうなんだ。と、だけ思った。実感が全然なく、悲しさより驚きの方が勝って、感覚が麻痺したみたいになっていた。
 彼女は入院していた友達の中では一番付き合いが長い。歳は私よりひとつ下だけど、小さい子供が3人もいる。この日記の書き始めの方にも書いていた…悩み相談につきあった友達だ。病名は私と同じ悪性リンパ腫ではなく、白血病。でも私が入院していた当時に骨髄移植を受けて、元気に退院もしていた。そのあと何度か家に遊びに行ったりもした。しかし再発して2回目の移植をする事になって再入院。最後に会ったのは今年の1月末、無菌室に入る前だった。そのあと彼女は無菌室に移り、移植は無事終り、あとは回復を待って無菌室から出てくる筈だった。
 無菌室に彼女が入ってからも、会えない分しばらくメールを出し続けていたけど、返事がこないので別の友達に様子を聞いていた。人づてでしか様子が判らなかったけど、それでも無菌室にいるのだから、頑張っているのだから絶対大丈夫だと思っていた。以前の移植の時も無菌室からちゃんと大部屋に戻ってきた元気な姿を知っていたから。今度も大丈夫、と。
 とても面倒見のいい友達だった。お母さんらしく世話好きで、喋るのが好き。普段は明るいけれど、一方、病気の事ではいつも不安を抱えていたみたいで、夜になるとそんな話で夜更かしをする事もしばしばだった。大家族で育ったせいか、昼間の賑やかな時はいいけれど、夜は寂しがって隣りのベッドとの仕切りカーテンを閉める事も嫌がった。何だかそんな所も可愛い、普段は明るくて、本当は寂しがり屋な友達だった。
 29日の告別式、会場に着いてから式が始まるまでの間、彼女の旦那さんから詳しい話を聞く事ができた。何度も治療をしていたせいで臓器も弱り、数日前から容態が急変して肺炎になってしまったそうだ。移植はしたのに…寂しがり屋な彼女が無菌室で1人で頑張ってきたのに…。
 式の前に棺のそばへ行き、彼女の顔も見せてもらった。…ああ、やっぱりMちゃんだ。あのMちゃんだ…と、顔を見たら一気に涙が出てきた。彼女は私よりずっと多くの治療、検査、そして移植もした。とても辛く、苦しかったと思う。…でも、今はもう苦しくないんだね、と静かな彼女の顔を見て思った。
 祭壇に飾られていた花は、彼女が好きそうな可愛い色のものばかりだった。とりわけ彼女はピンクが好きだったので、最後に棺に花を入れる時も、ピンクのものを選んで入れてあげた。
 どうか彼女の魂が安らかに眠れますように…。

 人が亡くなると、後悔ばかりだ。元気にまた会えると思っているから、去年都合で断ってしまったお茶の誘い、もっとメールを出せばよかった…等、いろいろ考える。「ごめんね」「有難う」…と、言葉が頭の中をぐるぐるしている。今はもう直接彼女に伝える事はできなくなってしまった。最後に彼女にメールを出したのは容態が急変する前日の22日だった。それを彼女は読んでくれただろうか…。

 大切な友達が今年に入って2人も亡くなり、さすがにダメージが大きいです。悲しいのと、自分も再発した時の…その不安とで。正直、ここ数日私も体調がよくありません。頭痛や吐き気が時々おこる。精神的なものなのか、それとも…。
 気持ちの切り替えなんてそう簡単にできるものじゃないけれど…3日はイベント。また甘えてしまうけど、私ももろい人間だから…元気をいろんな人から分けてもらいたい。当日頑張って行こうと思います…。

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沖田なおひろ [HOMEPAGE]

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