シオの日記

2003年07月29日(火) 一瞬でも思ったことの書留


書き留めなければ
きっと消えてしまう。
だから、醜い感情でも残しておこう。



話ができないのは自分の責任であって、
自分の話術のなさ、論理立てて話すことができない。
それで人に話をできない、相談できない
というのは、自己欺瞞と言えるのではないか。

話せばいいじゃないか。
友人には、話してよって言われても、
それでも話せない話は、
話すことによって相手が負担に感じるのじゃないか。
その程度のこと、なぜ自分で処理できないのか。
自分に矛先が向かってくる。
何が正しくて、何が間違っているのか。
答えも終わりもないことは
『生きていることは一日一日死に近づいていくことだ』と
けして絶望しているわけじゃない、悲観しているわけでもない

自分の安っぽいプライドのせいで
強い人間出あるために、昔、最も頼ってよいはずの親からの言葉で
『頼ることを許されない』と自分に課した。
自分で課した約束なのに、
それに逆に潰されそうになっているのかもしれない。


同性とか、異性とか、それ以前に、人間としての
自分を見て欲しい。
でも、それには難しい「話す」という過程がある。
その代わりにこの日記があったりもするのだけれど、
ここに話すことは私が話せること話せないこと
すべてが詰まっている。
ココを呼んで「こんな風に腹ん中では思っているンだ」と
理解してもらえたらそれはそれで嬉しい。
しかし、ココを読まなければ知りえることの出来なかった私を
ココで知ったからといって私のことを知ったとは思わないで欲しい。
逆に、そんな私を引き出すことの出来ないことのほうを
考えて欲しい。
・・・それこそ傲慢?横暴なのかもしれないが。



いつも、他者のよき理解者でありたいと思う反面、
不容易に他社の中に踏み込んではいけないと思う気持ちがある。
他人に対して遠慮しすぎているという認識のされ方もあるだろう。
慎重になりすぎていると言われたらそれまで。
そんなんじゃ相手を理解することはおろか、
相手を知ることすらできないと思うコトだってある。

人間に対して臆病になっている。
人間はやさしい面と恐ろしい面を両方もっている。
守る面と、攻撃し、傷つける面と。
どちらも自分を、他人を守るための力として利用しているとしても
例えそれが攻撃対象として与えた影響でないにしろ、
受け取る受容器としての個人がどのように捉えるかによって
かなり左右されるもの。



なんで、生年月日で性格が判断することができるのだろう?
占いは好きだけれど、例えば今日生まれた人はみんな
同じような性格になるなんて、何かがおかしい。
それでも占いやテストに縋って、
自分がわからない、
見えない、
理解できない、
曖昧、
不安があるのかな、って。
自分が見えないのかな、って。



・・・授業でこんな話を聞いた。
自分の息子を亡くした作家さんが言われたことに
『他の子が残っているのだから、
一人くらい子どもがいなくなっても(死んでも)
大丈夫なのではないか。慰めになるのでは?』と。
そんな言葉が掛けられたという。
でも、それは子どもを持たない私だっておかしいと思った。
子どもは一人一人全く違う。
ましてや、子どもが他の子どもの代用になんてならない。
・・・このことを妹も理解してくれたら、
きっと私ももう少しは救われるのだけれど
そして、これがわかっていないから
親が子どもの育児放棄をするのではないか。
育児放棄するなんて、犬と一緒じゃないかって。


集中講義は『死』をテーマに話される。
私は記憶にないひいじー様とひいばー様の死しか
体験したことがない。
知っているのは書面上の死のみ。
だから、死が不思議でしょうがないし、
興味をかきたてられるとか、
憧れるとかっていう世界になるのだろうか?


よくわからないけれど、
記録は残さなければ、書かなければ残らない。
だから、一瞬でも思ったことを
できるだけたくさん。
書き留めておきたいと思う今日この頃。

『死』について考える授業だから、
自分が死んだ後に、残るものは
ココくらいしか思いつかないからかもしれない。


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