日記でもなく、手紙でもなく
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2000年12月21日(木) 京都の年末風景


 京都生まれで、その後あちこちに住み、今住んでるところがもう一番長くなってしまいました。
 でも、京都に出かけるなら、ちょうど年末、ぐっと押しつまった頃に行くのが一番好きです。観光客向けではない、普通の京都に住む人にだけ向けられたような、そんな京都の顔が見られるように思うからです。

 できるだけ朝早起きして、東山あたりとか、子どもの頃住んでいた場所のそばにあった東福寺とか、そんなところを歩いているだけで、ちょっぴりですが、心の余白みたいなものが取り戻せる−−そんな感じでしょうか。
 決してのんびりするというわけではなく、むしろ、かすかな物音も聞き逃さない、木の葉の雫も見逃さない、というような、そこにはある種の緊張感があるのも事実です。

 その緊張感というのは、東京の雑踏で人にぶつからないように歩いている時のような、そういう緊張感というものとは、ぜんぜん別なのだろうと思います。東京にいたらあまり使うことのないような神経を、鋭くしてくれる−−、そのような心地良さでしょうか。
 だから、時間の流れ方がちょっとゆっくりしてくるような....

 東山方面からだと、歩いてもさほどではない、錦の通りへ向かって、その店で作っているだし巻きを求めて並んでいる人を見ると、たぶんそれを買って帰ると、お正月を「迎える」みたいに感じられるんだろうなぁ、というようにも思えてきます。

 季節が、普段の日常生活そのものの中に入って、しかも、それを造形したり、様式化できた時に、(手垢がついたコトバで照れくさいのですけど)文化になる、ということが、年末に京都にいくと、街角や路地の風景の中から、手に取るように見えてきます。見えてくるからこそ、続いてきたのだろうなぁ、とも思います。
 そのように振舞わないと、何か忘れているような、何か足りないような気持ちになってくる、みたいなこと。その<足りない気持ち>というのがココロ貧しいことだ、ということに気がついてしまえば、もっと気持ちが豊かになれる方法も、その中から見つけられそうではありますが。


riviera70fm |MAIL