鼻くそ駄文日記
目次へ|前へ|次へ
2001年08月28日(火) |
わたしは投げ込まれた存在である――ハイデガー/投企 |
まだ、なにひとつ自覚できていなかった子供の頃。わたしたちは、この世界を自分の思い通りになるものだと思ってはいなかっただろうか? ぼくはサッカー選手になりたかったし、なれると信じていた。当時はまだJリーグはなかったけれど、海外でプロとして活躍して、日本代表になってワールドカップで日本を優勝させることが「わたしには」できると思っていた。 やがて、ぼくは自分が人よりも運動神経が鈍いことを知る。自分の母国、日本がとてもじゃないがワールドカップで優勝できるような国でもないことを知る。 そのような挫折に直面し、人は世界が自分のために存在していないことを知るのである。 さて、挫折したわたしはどうすればいいのだろう? 世界が自分のために存在していないのならば、自分という存在は世界にとっても必要ないのではないだろうか? 自分の思い通りにならず、つらい思いばかりしなければならないのなら、生きる価値などあるのだろうか? そんなアイデンティティークライシスに陥ったときに、わたしたちに突きつけられるのがハイデガーの言う「投企」の現実である。 世界はわたしたちがいるから存在しているのではない。 わたしたちは、自分で望んだわけでなく、選んだわけでなく、ましてや造ったわけでもない世界に、否応なく投げ込まれた存在に過ぎない。 このことをわたしたちは自覚しなければならないのだ。 更にわたしたちは、自分が世界に投げ込まれた存在であることを気づくと、同時に「死」によってこの世界から強制的にいつかは退場させられる存在であることにも気づく。 そして、この死を自覚することによって、まったく新たな「生」の意味をつかむことができるのだ。 世界に投げ込まれたことを自覚した人間が、そのことに絶望しないで、逆に自分を世界に投げ返す。そこからが本当の意味での自分の人生のはじまりなのである。
|