鼻くそ駄文日記
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2003年08月16日(土) まだあるぞ夏休み企画1

というわけで今週は小説です。
忍耐をつけたい方、お読みください。

  『ぼくを呼ぶ声』



「弘晃、ごはんできたよ!」
 家中に響く大声だ。母親が、二階のぼくの部屋にまで聞こえるように叫んでいる。
 こうも叫ばれちゃあ、テレビの音も聞こえない。
「いま、勉強してるからあとで!」
 ぼくも叫ぶ。
 中学三年生のぼくにとって、家族と顔をあわせることは針のむしろだ。根ほり葉ほり人生の目標を尋ねる父親、近所のお利口さんな同級生のうわさ話をして遠回しに尻を叩く母親、家族との会話はぼくを卑屈にさせる。
「あとでじゃなくて、今日だけはちゃんと食べなさい!」
 母親はまた、大声で叫んだ。
 いつもなら、ぼくが返事をすればそれで引き下がる母親なのだが、様子がおかしい。
 受験生にとって、「勉強してる」は伝家の宝刀のはずだ。
 たとえ、本当に勉強をしていなくても、勉強してる、と言えば何もかも許されるものだ。
「忙しいんだよ」
 ぼくは部屋のドアを少しだけ開けた。顔を廊下に覗かせて階段に向かって言う。階下には母親の顔があった。
「忙しくても、今日だけは一緒にご飯を食べなさい。いつもいつも食べさせてるわけじゃないでしょ。今日ぐらいは、一緒に食べなさい。お父さんもビールを空けずにあなたを待ってるのよ!」
 父親は帰宅すると、食事の前に必ず風呂に入る。
 風呂上がりのビールをお預けされている父親、ぼくは家に二人しかいない男同士として父親に同情した。
「わかったよ。すぐ下りる」
 弱々しく言って、部屋のテレビと蛍光灯を消す。
 しかし、なんだって今日に限って母親は家族一緒にメシを喰わせたがるんだろう。
「今日ぐらいは」と母親は言った。
 だけど、今日は両親の誕生日ではない。結婚記念日でもない。ましてやぼくの誕生日でもないし、ぼくと四年と三日違いの妹の誕生日でもない。
 三者面談も終わったばかりだし、模試の結果は先週じっくり母親の感想を聞かされた。
 特別重要でもない、平凡な二十一世紀の一日。
 なのになぜ、「今日ぐらいは」なのか?
 疑問を抱えてぼくは階段を下りた。
 廊下からテレビの音が聞こえた。食卓ではNHKのニュースが流れているようだ。
 母親がシンクの蛇口を使っている音が聞こえる。
 家族はどんな顔をしてるんだろう?
 いつもなら二階の部屋からでも聞こえる平凡な家庭の食卓での笑い声が今日は聞こえない。
 みんな、じっと無言でぼくを待っているようだ。
 何のために?

 
 


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