解放区

2014年05月06日(火) 祖母について。

祖母が入院したという知らせが入った。叔母がずっと在宅で診ていたのだが、ここ数日はまったく食事も摂れず、休日だからととりあえずの応急処置をかかりつけに求めたらそのまま入院になったそうだ。


祖母の本籍地は、現在てめえが住んでいるあたりである。しかしこのあたりにてめえの血族は全くおらず、この本籍の意味するところは全く分からない。呆けた後の親父に聞いてみたことがあるが「知らん」と一言で片づけられた。世の中にはいろんな闇がある。

てめえが知っている祖母のことは、学校を卒業して、当時の京福電車であった叡電の出町柳駅で、駅員として働いていたということ。もちろん当時の京福は京阪電鉄とは連携しておらず、京都の洛北の極めてローカルな電車だった。

台湾から職を求めて日本に出てきていた祖父は、出町柳駅近くのアパートに住んでいた。台湾人や朝鮮人などの外国人はこの地域にしか住めなかったのだが、それはまた別の機会に語ることにしよう。アパートの窓の外はすぐに線路であり、朝は始発電車の駆ける音で目が覚めた。

そのアパートからは出町柳駅もすぐに見える。そこで駅員として働く祖母に、祖父は惚れたらしい。駅員として働いていた祖母にアパートの窓から手を振ったり、その他いろいろ。そして猛烈に口説いたそうだ。当時は戦争も終わってすぐで、台湾人に対する偏見と言うか差別が強かった。祖父と付き合い「この人と一緒になりたい」と思った祖母は、離縁覚悟で結婚を決めた。「台湾人と結婚するなんて、てめえはうちの娘じゃねえ!」と、一族郎党から離縁を言い渡された祖母は、少しだけ身の回りのものを持って祖父の住む出町柳駅そばのアパートに逃げた。

二人は誰にも祝福されずひっそりと入籍した。祖父が30歳、祖母は20歳だった。日本人として生まれた(1945年以前に生まれた台湾人及び朝鮮人は、生まれた時は日本国籍である。そして国籍消失後も特別永住者としての資格を得ることができたがその話はまた別)二人は数年前なら普通の結婚となったのだが、戦争を経た結果二人は国際結婚となった。そして、祖母は祖父の名字を選択しなかった。てめえの名字は、そんなわけで祖母の名字のままである。

出町柳駅近くの風呂も便所も共用のアパートで、二人の新婚生活は始まった。ガスだけは部屋に引き、コンロ一つでの生活が始まった。

祖父はまず、パン屋で働いたそうだ。朝から晩までパンを焼き、寝る時間を惜しんで働いた。寝ないように「ヒロポン」も使った。そして、仕事の合間には大好きなラーメンを食べた。祖母の話では、祖父はお金があれば3杯4杯とお代わりしたそうだ。

そのうち、「おや、もしやてめえがラーメンを作ればみんな幸せになるのでは」と思った祖父は、パン屋を辞めて自作の屋台を引いた。たった一つだけ引いたガスコンロで豚骨を炊いた。ラーメンは初めは全く売れなかったが、次第に評判を呼んだ。

祖母は本当に、自己主張しない人だった。いつも祖父の横で微笑んでいた。夫婦喧嘩の類も全く知らない。

彼女は親兄弟すべてから離縁されたため、てめえは祖母のルーツをそれ以上に知らない。てめえと同じ名字の親戚の付き合いが全くない。「台湾人だから」と離縁するような親戚に全く興味はないし、今後も追及することはないだろう。

そんな祖母は、祖父にひたすら殉じた。日本女性とはこういうものかとてめえは思うくらいであった。祖父がてめえの母を追い出した時も、全く自己主張をしなかった。

古い日本人だった。確かに、昔の祖父は良い男だったんだろうなと思う。当時としては180cm以上あり身長も高く、ルックスも悪くなかった。ユーモアもあり、食事量も凄かった。食糧難の時代に、なんでももりもり美味しく食べる祖父が、祖母は好きだったのだろうと思う。

祖父が死んで、祖母は一気に老けた。祖父だけの人生だった。友人もおらず、親戚付き合いも全くなかった、というより離縁されていた。時代は流れていたにもかかわらず、差別意識は変わらなかった。そして残された息子(てめえの父)と二人の生活で一気に呆けた。

ずっとてめえの親父が一緒に暮らしていたのだが、親父が呆けたので叔母が面倒を診ることになった。

今はもうご飯も食べれないそうだ。咀嚼ができないという意味なのであれば、生物としてはもうおしまいなのでこれ以上の処置は不要だろうと思う。

本人を診てみてから判断したいと思うが、この高齢で快復をもとめるのはありえないだろうな。だったら、苦しまずにあれだけ最後まで愛した祖父の下に行ってもらった方が良いだろうと思う。


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